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2022年3月 1日 (火)

敵対あるいは抑圧してくる人に対する対処1

 マタイ538-42には次のように記されています。
“38
『目には目を、歯には歯を』と言われていたのを、あなたがたは聞いています。
39
しかし、わたしはあなたがたに言います。悪い者に手向かってはいけません。
あなたの右の頬を打つ者には左の頬も向けなさい。
40
あなたを告訴して下着を取ろうとする者には、上着も取らせなさい。
41
あなたに一ミリオン行くように強いる者がいれば、一緒に二ミリオン行きなさい。
42
求める者には与えなさい。借りようとする者に背を向けてはいけません。2017)とあります。

 38節には、「『目には目を、歯には歯を』と言われていたのを、あなたがたは聞いています。」とあります。
この文の中の「と言われていたのを、あなたがたは聞いています。」という箇所は、律法の中の一節を指しています。出エジプト記に記されているこの箇所は、出エジプト20章の十戒から始まり、23章まで続いている律法の聖句の中にあります。そして243-8を読むと分かりますが、ヤハウェ(主)に対してイスラエルは、律法を守るという血の契約を結んだのです。
 
 出エジプト243-8には次のように記されています。
“3
モーセは来て、主〔ヤハウェ(筆者挿入)〕のすべてのことばと、すべての定め〔すべての法(新共同訳)〕をことごとく民に告げた。
すると、民はみな声を一つにして答えた。
「主〔ヤハウェ(筆者挿入)〕の言われたことはすべて行います。」
4
モーセは主〔ヤハウェ(筆者挿入)〕のすべてのことばを書き記した。
モーセは翌朝早く、山のふもとに祭壇を築き、また、イスラエルの十二部族にしたがって十二の石の柱を立てた。
5
それから彼はイスラエルの若者たちを遣わしたので、彼らは全焼のささげ物を献げ〔全的献身を表しています(筆者挿入)〕、また、交わりのいけにえとして雄牛を主〔ヤハウェ(筆者挿入)〕に献げた〔神との交わりを表しています(筆者挿入)〕。
6
モーセはその血の半分を取って鉢に入れ、残りの半分を祭壇に振りかけた
7
そして契約の書を取り、民に読んで聞かせた。彼らは言った。
「主〔ヤハウェ(筆者挿入)〕の言われたことはすべて行います。聞き従います。
8
モーセはその血を取って、 民に振りかけ、 そして言った。
「見よ。これは、これらすべてのことばに基づいて、主〔ヤハウェ(筆者挿入)〕があなたがたと結ばれる契約の血である。 」”(2017)とあります。

 以上のように、イスラエルは、律法を守るという血の契約を、神ヤハウェと結んだのです。

 この律法の中に、裁判の規定がありました。
出エジプト211には、“これらはあなたが彼らの前に置くべき定め〔「法」(新共同訳)〕である。”(2017)という文から始まって、
出エジプト2123-25には次のように記されています。
“23
もし、その他の損傷〔「害」(口語訳)〕があるならば、
命には命、24 目には目、歯には歯、手には手、足には足、25 やけどにはやけど、生傷には生傷、打ち傷には打ち傷をもって償わねばならない。(新共同訳)とあります。

 また申命記1915,21には次のように記されています。
“15
いかなる咎でも、いかなる罪でも、すべて人が犯した罪過は、一人の証人によって立証されてはならない。二人の証人の証言、または三人の証人の証言によって、そのことは立証されなければならない。
21
あわれみをかけてはならない。いのちにはいのちを、目には目を、歯には歯を、手には手を、足には足を。”(2017)というように裁判の中の条文として語られています。

 トラブルがあった時に、私刑を防ぐ意味合いで、ヤハウェ(主)は定めたのです。
レメクのようにならないためであろうと思います。
レメクはどのような人であったのでしょうか?
創世記423,24には次のように記されています。
“23
レメクは妻たちに言った。
「アダとツィラよ、私の声を聞け。レメクの妻たちよ、私の言うことに耳を傾けよ。私は一人の男を、私が受ける傷のために殺す。一人の子どもを、私が受ける打ち傷のために。24 カインに七倍の復讐があるなら、レメクには七十七倍。」”(2017)とあります。

 さて、イエス様は、至高の神様、すなわち万物の根源であられる神様を天のお父様、と呼べる人たち(マタイ545,4866,9)について、マタイ538-42の箇所を語ったのです。
再掲しますと、
“38
『目には目を、歯には歯を』と言われていたのを、あなたがたは聞いています。
39
しかし、わたしはあなたがたに言います。悪い者に手向かってはいけません。
あなたの右の頬を打つ者には左の頬も向けなさい。
40
あなたを告訴して下着を取ろうとする者には、上着も取らせなさい。
41
あなたに一ミリオン〔約1480m(聖書協会共同訳)〕行くように強いる者がいれば、一緒に二ミリオン行きなさい。
42
求める者には与えなさい。借りようとする者に背を向けてはいけません。2017)とあります。

 同じ個所をリビングバイブルは次のように意訳しています。
“38
「あなたがたの教えでは、『人の目をえぐり出した者は、自分の目もえぐり出される。人の歯を折った者は、自分の歯も折られる』とあります。39 しかし、わたしはあえて言いましょう。暴力に暴力で手向かってはいけません。もし右の頬をなぐられたら、左の頬も向けてやりなさい。40 借金のかたに下着を取り上げようとする人には、上着もやりなさい。41 荷物を一キロ先まで運べと命令されたら、二キロ先まで運んでやりなさい。42 『何か下さい』と頼む人には与え、借りに来た人を手ぶらで追い返さないようにしなさい。」とあります。

 この聖句を、「天の父」即ち「霊の父」(ヘブル129)を持たない人に押し付けても、それは無理というものです。
霊の父を持つためには、イエス様を信じて新生する必要があるからです(ヨハネ33,61ペテロ13)。
 ヨハネ33,6には、“3 イエスは答えて言われた。「はっきり言っておく〔原語は「アーメン、アーメン」(筆者挿入)〕。人は、新たに生まれなければ、神の国を見ることはできない。」
6
「肉から生まれたものは肉である。霊から生まれたものは霊である。」(新共同訳)と記されています。
 同じ個所をフランシスコ会訳は次のように記しています。
“3
イエスは答えて仰せになった、「よくよくあなたに言っておく。人は上から生まれなければ、神の国を見ることはできない」。
6
「肉から生まれた者は肉であり、霊から生まれた者は霊である。」とあります。
「新たに」(新共同訳)、「上から」(フランシスコ会訳)と訳されている語のギリシア語原語は、「アノーセン」で、どちらの意味もあります。イエス様は、両方の意味合いを合わせて語られたものと思います。

 キリスト者は霊の人として歩むことができる恵みを与えられているのです。
イエス様は上記の聖句を語られましたが、実際にそのような心のありようで歩まれたお方です。それは御父の御名が崇められるためでした。
イエス様は、「このように、あなたがたの光を人々の前で輝かせなさい。人々があなたがたの良い行いを見て、天におられるあなたがたの父をあがめるようになるためです。」(マタイ5162017)と語られ、また、「あなたがたの天の父が完全であるように、完全でありなさい。」(マタイ5482017)と語られました。
イエス様が語られた真意は、平和運動のための言葉ではなく、神の栄光のためです。

 イエス様の上記のようなご命令に対して、人の肉の思いや感情は、「絶対に無理」と言うでしょう。
しかし、霊に関しては、「主と交わる者は、主と一つの霊になるのです。」(1コリント6172017)と記されています。
 パウロは言いました。
「私は、神に生きるために、律法によって律法に死にました。私はキリストとともに十字架につけられました。もはや私が生きているのではなく、キリストが私のうちに生きておられるのです。今私が肉において生きているいのちは、私を愛し、私のためにご自分を与えてくださった、神の御子に対する信仰〔原文は「神の御子の信仰or真実or実質」とも訳せます(筆者挿入)」によるのです。」(ガラテヤ219.202017)と。

<お祈り>
天のお父様。
あなたの御名を賛美します。
もし、肉において害を受けるようなときには、あなたの恵みによって、主と一つとされている霊によって対応することができますように。
そこまで行かない場合には、よくよく祈ることができますように。
私たちの主キリスト・イエス様の御名で祈ります。アーメン。

2022年2月28日 (月)

主に在る歩みと主の御旨に反する歩み

 箴言101-6には次のように記されています。
“1
ソロモンの箴言。
知恵のある子は父を喜ばせ、
愚かな子は母の悲しみとなる。
2
不義によって得た財宝は役に立たない。
義のわざは人を死から救い出す。
3
主〔ヤハウェ(筆者挿入)〕は正しい人を飢えさせず、
悪しき者の欲〔願い(フランシスコ会訳)〕を突き放される。
4
無精者の手は人を貧乏にし、
勤勉な者の手は人を富ませる。
5
夏のうちに集める者は賢い子。
刈り入れ時に眠る者は恥知らずな子。
6
正しい人の頭には祝福があり、
悪しき者の口は不法を隠す。2017)とあります。

 この箇所のソロモンの箴言は、3節を除くと、主なる神様抜きでも、そのままこの世においても通じるような箇所ですが、全体を主なる神様との関係で述べていきたいと思います。

 1節には、“ソロモンの箴言。
知恵のある子は父を喜ばせ、愚かな子は母の悲しみとなる。”とあります。
「知恵のある子」と訳されている語のヘブライ語原語は「ベン(息子) ホーカーム(賢い、分別がある、思慮深い)」です。

 天の父なる神様を喜ばせる神の子どもたちとは、主を信じ、主に従い、みことばに習熟し、分別ある子どもたちです。
パウロは、キリスト者のために次のように祈りました。
9 こういうわけで、私たちもそのことを聞いた日から、絶えずあなたがたのために祈り求めています。どうか、あなたがたが、あらゆる霊的な知恵と理解力によって、神のみこころについての知識に満たされますように。
10
また、主にふさわしく歩み、あらゆる点で主に喜ばれ、あらゆる良いわざのうちに実を結び、神を知ることにおいて成長しますように。
11
神の栄光の支配により、あらゆる力をもって強くされ、どんなことにも忍耐し、寛容でいられますように。
12
また、光の中にある、聖徒の相続分にあずかる資格をあなたがたに与えてくださった御父に、喜びをもって感謝をささげることができますように。」(コロサイ1章・2017)と記されています。

 2節には、“不義によって得た財宝は役に立たない。義のわざは人を死から救い出す。”とあります。
「義のわざは人を死から救い出す。」と後半部分にありますが、先ず、イエス様の十字架を思い浮かべます。
イエス・キリスト様の御功績の故に、私たち罪びとは、信仰によって救われたのです。
 ピリピ26-8には、
“6
キリストは、神の御姿であられるのに、神としてのあり方を捨てられないとは考えず、7 ご自分を空しくして、しもべの姿をとり、人間と同じようになられました。
人としての姿をもって現れ、8 自らを低くして、死にまで、それも十字架の死にまで従われました。2017)と記され、
 エペソ17には、
このキリストにあって、私たちはその血による贖い、背きの罪の赦しを受けています。これは神の豊かな恵みによることです。2017)と記され、
 エペソ28,9には、
この恵みのゆえに、あなたがたは信仰によって救われたのです。それはあなたがたから出たことではなく、神の賜物です。行いによるのではありません。だれも誇ることのないためです。2017)と記されています。
 救われるための信仰に関しては、ローマ109,10に次のように記されています。
もしあなたの口でイエスを主と告白し、あなたの心で神はイエスを死者の中からよみがえらせたと信じるなら、あなたは救われるからです。人は心に信じて義と認められ、口で告白して救われるのです。2017)とあります。

 3節には、“主〔ヤハウェ(筆者挿入)〕は正しい人を飢えさせず、
悪しき者の欲〔願い(フランシスコ会訳)〕を突き放される。”とあります。
 「主〔ヤハウェ(筆者挿入)〕は正しい人を飢えさせず」とありますが、
詩篇3410には、「若い獅子も乏しくなり飢える。しかし主を求める者は、良いものに何一つ欠けることがない。」(2017)とあり、
ピリピ419には、「私の神は、キリスト・イエスの栄光のうちにあるご自分の豊かさにしたがって、あなたがたの必要をすべて満たしてくださいます。」(2017)と記されています。(但し、神様から見て、私たちが必要なものとは何なのか、現代人は神様が必要と思っている以上のものを必要と思っているかもしれないと私は思います。)

 「主〔ヤハウェ(筆者挿入)〕は、悪しき者の欲〔願い(フランシスコ会訳)〕を突き放される。」と3節にありますが、悪しき者の欲を突き放さない霊的な生きものがいます。それが悪魔悪霊です。

 4,5節には、“4 無精者の手は人を貧乏にし、勤勉な者の手は人を富ませる。5 夏のうちに集める者は賢い子。刈り入れ時に眠る者は恥知らずな子。と記されていますが、霊の世界における働きにも通じるものがあると思います。

 イエス様は次のように語りました。
「「もうしばらく、光はあなたがたの間にあります。闇があなたがたを襲うことがないように、あなたがたは光があるうちに歩きなさい。闇の中を歩く者は、自分がどこに行くのか分かりません。自分に光があるうちに、光の子どもとなれるように、光を信じなさい。」(ヨハネ1235.362017)と記されています。

 そのうち大患難時代が到来します。
その時に神様は、イエス様を信じない者にどのようにするでしょうか?
 2テサロニケ27-12には次のように記されています。
“7
不法の秘密はすでに働いています。ただし、秘密であるのは、今引き止めている者が取り除かれる時までのことです〔「引き止めている者が取り除かれる時」は、キリストの空中再臨時の携挙の時に起こります(筆者挿入)〕。
8
その時になると、不法の者〔ダニエル927では「荒らす者」(2017)、マタイ2415では「荒らす忌まわしい者」、黙示録131では「獣」(筆者挿入)〕が現れますが、主イエスは彼を御口の息をもって殺し、来臨の輝きをもって滅ぼされます。
9
不法の者は、サタンの働きによって到来し、あらゆる力、偽りのしるしと不思議、10 また、あらゆる悪の欺きをもって、滅びる者たちに臨みます。
彼らが滅びるのは、自分を救う真理を愛をもって受け入れなかったからです
11
それで神は、惑わす力を送られ、彼らは偽りを信じるようになります
12
それは、真理〔「私は真理です」とイエス様は言われました{ヨハネ146}(筆者挿入)〕を信じないで、不義を喜んでいたすべての者が、さばかれるようになるためです。2017)と記されています。

 6節には、“正しい人の頭には祝福があり、悪しき者の口は不法を隠す。”とあります。
新共同訳は、神に従う人は頭に祝福を受ける。神に逆らう者は口に不法を隠す。と訳しています。
神に対して正しい人は祝福を受けるのです。
三一のヤハウェ(主)なるお方だけを自分の神とし、神を愛し、神に信頼し、神に従う人には、神からの恵みが豊かなのです。
 詩篇3210には、悪しき者は心の痛みが多い。しかし主に信頼する者は、恵みがその人を囲んでいる。2017)と記され、
 詩篇865には、“主よ、まことにあなたは、いつくしみ深く、赦しに富み、あなたを呼び求める者すべてに、恵み豊かであられます。”(2017)と記され、
 ヨハネ114には、ことば〔イエス・キリスト(筆者挿入)〕は人となって、私たちの間に住まわれた。私たちはこの方の栄光を見た。父のみもとから来られたひとり子としての栄光である。この方は恵みとまことに満ちておられた。2017)と記されています。

<お祈り>
天のお父様。
あなたの御名を賛美します。
あなたを愛し、あなたにいつも信頼し、あなたに従い続けることが出来ますよう祝福してください。
私たちの主キリスト・イエス様の御名で祈ります。アーメン。

2022年2月27日 (日)

詩篇18篇にみるダビデの体験に基づくダビデの神観7/主は生きておられる

 詩篇1846-50には次のように記されています。
“46
主〔ヤハウェ(筆者挿入)〕は生きておられる。
ほむべきかな、わが岩。あがむべきかな、わが救いの神。
47
この神は、私のために復讐する方。諸国の民を私のもとに従わせてくださる。
48
神は敵から私を助け出される方。実にあなたは、向かい立つ者から私を引き上げ、不法を行う者から救い出してくださいます。
49
それゆえ主〔ヤハウェ(筆者挿入)〕よ、私は国々の間であなたをほめたたえます。あなたの御名をほめ歌います。
50
主は、ご自分の王に救いを増し加え、主に油注がれた者ダビデとその裔にとこしえに恵みを施されます。2017)とあります。

 46aには、“主〔ヤハウェ(筆者挿入)〕は生きておられる。”とあります。
新生したキリスト者は全員、主が生きておられることを知っています。
新生したキリスト者は、自分との関わりにおいて主が生きておられることを体験しているものです。
自分はクリスチャンです、と自己申告しても、主との関わりを体験したことの無い人は、問題です。
前はクリスチャンでしたが、今はイスラム教徒です、などという人の話をテレビで聞いたことがありますが、新生したキリスト教徒は、そのようなことを言わないでしょう。
そのような人は、少なくとも、聖霊によって、「イエスは主です」とは言っていないのです。
霊的実際にあって、イエスは主です、と言えるのは、聖霊によるのですから(1コリント123)。

 ダビデは、「ヤハウェ(主)は生きておられる」と証しすることの出来る方でした。
ダビデは、自分の数々の体験を通して、またヤハウェ(主)から預言者として立てられたので、霊の世界をより深く知っていた人でした。
その中には、「ヤハウェ(主)は、アドニ(私の主)に言われた。」というものまであります(詩篇1101)。
ダビデは、御子を、私の主、と言っています。
そして詩篇110篇には、御父が、御子に述べたお言葉が続いて書いてあるのです。

 キリスト者も罪を赦されたとき、新生したとき、祈りの答えを与えられたとき、窮地から救い出されたとき、知恵を与えられたとき、真理の解き明かしを与えられたとき、預言を与えられたとき、・・・・etc.と、色々な主にある体験をしてきたことと思います。

 新約時代のキリスト者は、「主は生きておられる。わが内におられる。」と証しすることが出来ますし、主と共に歩んでいる人は、明確に、「「主は生きておられる。わが内におられる。」と証しすることが出来るでしょう。
正しく主なる神の恵みです。

 そうであれば、ダビデのように主をほめたたえるでしょう。
ダビデとは表現が異なるかも知れませんが、ダビデは、「ほむべきかな、わが岩。あがむべきかな、わが救いの神。」と主を賛美しました。
「わが岩」というのは、私を敵から守ってくださるお方、と言い換えても良いのではないかと思います。

 聖書を読むうえで、「主は生きておられる」という言葉を人が言っているときに、ダビデとは異なる意味合いで用いられている場合も多いのです。
それは、「主は生きておられる」という言葉を、「誓って言うが」という誓いの意で用いているのです。

 預言者エリシャの弟子にゲハジという人がいました。
エリシャに仕えてはいても、霊の目が開かれていない人でした。
2
列王記5章にナアマンのらい病の癒しの記事が記されています。
その中に記されている文言ですが次のようなものがあります。
そのとき、神の人エリシャに仕える若者ゲハジはこう考えた。「何としたことか。私の主人は、あのアラム人ナアマンが持って来た物を受け取ろうとはしなかった。主は生きておられる。私は彼の後を追いかけて、絶対に何かをもらって来よう。」20節)
この箇所をリビングバイブルは次のように意訳しています。
ところが、エリシャのしもべゲハジは、ひそかに考えました。「だんな様のお人好しにも困ったものだ。贈り物を一つも受け取らずに、あの方を帰してしまうとは。よし、あの方のあとを追いかけ、何か頂いて来よう。」と記しています。
ゲハジは、絶対にもらって来るぞ、という思いを込めて、主なる神様抜きで、主は生きておられる、という言葉を使ったのです。
神の人と呼ばれた預言者エリシャは、なにも受け取らなかったのですから。
(内容を詳しく知りたい方は、2列王記5章全体をお読みください。)

 預言者エレミヤは、ヤハウェ(主)の御言葉として、「彼らが、主は生きておられる、と言うからこそ、彼らの誓いは偽りなのだ。」(エレミヤ522017)と述べている箇所があります。
この箇所を、リビングバイブルは次のように意訳しています。
「彼らは、誓いを立てる時でもうそをつく。」と訳しています。
エレミヤ52に記されている「彼ら」とは、どのような人たちであったのでしょうか?
それは続く3節に、エレミヤの言葉として次のように記されています。
「主よ、あなたの目は、真実に届かないのでしょうか。あなたが彼らを打たれたのに、
彼らは痛みもしませんでした。絶ち滅ぼそうとされたのに、彼らは懲らしめを受けることを拒みました。彼らは顔を岩よりも硬くして、立ち返ることを拒みました。」(2017)とあります。
主との関わりにおいて、主を知らない人たちも、誓いの言葉として、「ヤハウェ(主)は生きておられる」という言葉を使ったのです。

 ダビデも「誓う」という意味合いで、「ヤハウェ(主)は生きておられる」という言葉を使って語っています。
ヨナタンに対するダビデの言葉の中に、「ダビデはなおも誓って言った。「父上〔サウル王(筆者挿入)〕は、私があなたのご好意を受けていることを、よくご存じです。『ヨナタンが悲しまないように、このことを知らせないでおこう』と思っておられるのです。けれども、主は生きておられます。あなたのたましいも生きておられます。私と死の間には、ほんの一歩の隔たりしかありません。」(1サムエル2032017)と記されています。
この箇所のダビデの言葉を理解するためには、1サムエル185から読んでいく必要があります。

 47aには、“この神は、私のために復讐する方。”とあります。
新約時代になると、イエス様は、「自分の敵を愛し、自分を迫害する者のために祈りなさい。」(マタイ5442017)と命じられました。
それだけではなく、「わたしのために人々があなたがたをののしり、迫害し、ありもしないことで悪口を浴びせるとき、あなたがたは幸いです。喜びなさい。大いに喜びなさい。天においてあなたがたの報いは大きいのですから。」(マタイ511,122017)とも語られ、また、次のようにも語られました。
「もし人の過ちを赦すなら、あなたがたの天の父もあなたがたを赦してくださいます。しかし、人を赦さないなら、あなたがたの父もあなたがたの過ちをお赦しになりません。」(マタイ614.152017)と記されています。
「あなたがたの父」、とありますから、語られている対象は、神の子どもたちです。

 余談になりますが、艱難時代の聖徒たちは大勢が殉教します。
その聖徒たちは次のように言います。
黙示録610には、彼らは大声で叫んだ。「聖なるまことの主よ。いつまでさばきを行わず、地に住む者たちに私たちの血の復讐をなさらないのですか。」2017)と記されています。
この人達は、次のように言われています。
すると、彼ら一人ひとりに白い衣が与えられた。そして、彼らのしもべ仲間で、彼らと同じように殺されようとしている兄弟たちの数が満ちるまで、もうしばらくの間、休んでいるように言い渡された。(黙示録6112017)と記されています。

 神の子であるキリスト者に対して、パウロは次のように述べました。
「互いに親切にし、優しい心で赦し合いなさい。神も、キリストにおいてあなたがたを赦してくださったのです。」(エペソ4322017)とあります。
イエス様から私に来た御言葉は、「お互いに親切にし、心の優しい人となり、神がキリストにおいてあなたがたを赦してくださったように、互いに赦し合いなさい。」(新改訳第二版)という御言葉でした。(実際は、もう少し、かみ砕いて語られました。)
それは、私が、使用していた聖書を主が用いられたからです。
 コロサイ313には、「互いに忍耐し合い、だれかがほかの人に不満を抱いたとしても、互いに赦し合いなさい。主があなたがたを赦してくださったように、あなたがたもそうしなさい。」(2017)と記されています。
 この箇所をフランシスコ会訳は、「互いに耐え忍び、誰かに不満が あったとしても、互いに心から赦し合いなさい。主があなた方を心から赦してくださったように、あなた方もそうしなさい。」と訳しています。
「心から赦し合いなさい」と訳していますが、「心から」の語は原文にはありません。しかし、イエス様は、私たちを心から赦してくださいました。
この節を新共同訳は、「互いに忍び合い、責めるべきことがあっても、赦し合いなさい。主があなたがたを赦してくださったように、あなたがたも同じようにしなさい。」と訳しています。
「責めるべきことがあっても」という箇所ですが、原文のヘブライ語単語にはそのような意味もあります。

 48節には、“神は敵から私を助け出される方。実にあなたは、向かい立つ者から私を引き上げ、不法を行う者から救い出してくださいます。”とあります。
ダビデは、この様な経験をいくたびもしてきたのです。

 キリスト者の敵は、人ではありません。
キリスト者の敵は、悪魔(サタン)・悪霊です。
私たちは、悪魔(サタン)・悪霊に勝利できる存在です。
彼らに対する戦い方は、エペソ610-18に次のように記されています。
“10
・・・。主に結ばれ〔in the LordNKJV)〕、その力強い威力にあずかって強くなりなさい。
11
悪魔の策略に対して、しっかりと立つことができるように、神の武具を身につけなさい。
12
なぜなら、わたしたちにとっての戦いは、血と肉からなる人間相手のものではなく、支配の霊や権威の霊に対するもの、いわば、この闇の世界の権力者たちに対するものであり、天の者たちの間にいる、邪悪な霊に対するものだからです。
13
ですから、邪悪の日に、これらのものに立ち向かうことができ、また、すべてを成し遂げて、しっかりと立つことができるように、神の武具を取りなさい。
14
真理で腰回りを堅め、正義の胸当てを身につけて、しっかりと立ちなさい。
15
また、平和の福音を告げるための準備を足ごしらえとし、
16
すべてにおいて信仰の盾をかざしなさい。この盾で、悪い者が放つすべての火矢を消すことができます。
17
救いの兜を頭に戴き、神の言葉である霊の剣を取りなさい。
18
あらゆる祈りと願いをもって、 どんな時にも、霊によって祈りなさい。そのためにも、聖なる人々のために根気強く祈りつつ、目を覚ましていなさい。”(フランシスコ会訳/一部解説的な訳)とあります。

 自分はクリスチャンです、と言うのに、悪魔(サタン)・悪霊の存在を信じていない人もいます。そのような人は聖書を信じていないのです。
聖き歩みを心がけたら、悪魔(サタン)・悪霊との戦いは必至となります。
悪魔(サタン)・悪霊との戦いを抜きにして、聖き歩みの継続は不可能だと私は思います。

 50節には、“主は、ご自分の王に救いを増し加え、主に油注がれた者ダビデとその裔にとこしえに恵みを施されます。”と記されています。

 ヤハウェ(主)は、ダビデに、預言者ナタンを通じて語られました。その中の一部を取り上げますが、2サムエル712,16には次のように記されています。
12 あなたが生涯を終え、先祖と共に眠るとき、あなたの末裔〔ヘブライ語原語は「ゼラ」で、子孫の意です(筆者挿入)〕、あなたの身から出る者を後に立たせ〔イエス・キリストのこと(筆者挿入)〕、その王国を揺るぎないものとする。16 あなたの家とあなたの王国は、あなたの前にとこしえに続く。あなたの王座はとこしえに堅く据えられる。」(聖書協会共同訳)とあります。


 マタイの福音書は、“アブラハムの子、ダビデの子、イエス・キリストの系図。”(マタイ112017)という聖句から始まります。

 アブラハムについての預言としては次のようなものがあります。
創世記123には、「わたしは、あなたを祝福する者を祝福し、あなたを呪う者をのろう。地のすべての部族は、あなたによって祝福される。」(2017)とあり、
創世記1818には、「アブラハムは必ず、強く大いなる国民となり、地のすべての国民は彼によって祝福される。」(2017)と記され、
創世記2218には、「あなたの子孫〔ヘブライ語の原語は「ゼラ」で単数形、イエス・キリストを指しています(筆者挿入)〕によって、地のすべての国々は祝福を受けるようになる。あなたが、わたしの声に聞き従ったからである。」(2017)と記されています。
パウロは、創世記2216を解説して、次のように語りました。
「約束は、アブラハムとその子孫に告げられました。神は、『子孫たちに』と言って多数を指すことなく、一人を指して『あなたの子孫に』と言っておられます。それはキリストのことです。」(ガラテヤ3162017)と記されています。
 
 そして神様の壮大なご計画の一部がエペソ13-14に次のように記されています。
“3
私たちの主イエス・キリストの父である神がほめたたえられますように。神はキリストにあって、天上にあるすべての霊的祝福をもって私たちを祝福してくださいました。
4
すなわち神は、世界の基が据えられる前から〔天地創造の前に(新共同訳)〕、この方〔キリスト(筆者挿入)〕にあって私たちを選び、御前に聖なる、傷のない者にしようとされたのです。
5
神は、みこころの良しとするところにしたがって、私たちをイエス・キリストによってご自分の子にしようと、愛をもってあらかじめ定めておられました。
6
それは、神がその愛する方にあって私たちに与えてくださった恵みの栄光が、ほめたたえられるためです。
7
このキリストにあって、私たちはその血による贖い、背きの罪の赦しを受けています。これは神の豊かな恵みによることです。
8
この恵みを、神はあらゆる知恵と思慮をもって私たちの上にあふれさせ、9 みこころの奥義を私たちに知らせてくださいました。その奥義とは、キリストにあって神があらかじめお立てになったみむねにしたがい、10 時が満ちて計画が実行に移され、天にあるものも地にあるものも、一切のものが、キリストにあって、一つに集められることです。
11
またキリストにあって、私たちは御国を受け継ぐ者となりました。すべてをみこころによる計画のままに行う方の目的にしたがい、あらかじめそのように定められていたのです。
12
それは、前からキリストに望みを置いていた私たちが、神の栄光をほめたたえるためです。
13
このキリストにあって、あなたがたもまた、真理のことば、あなたがたの救いの福音を聞いてそれを信じたことにより、約束の聖霊によって証印を押されました。
14
聖霊は私たちが御国を受け継ぐことの保証です。このことは、私たちが贖われて神のものとされ、神の栄光がほめたたえられるためです。2017)とあります。

 三一の神を愛する私たちは、心から喜びをもって、主なる神をほめたたえる者なのです。
“後の世代のために、このことは書き記されねばならない。「主を賛美するために民は創造された。」”(詩篇10219・新共同訳)

ハレルヤ!

<お祈り>
天のお父様。
あなたの御名を賛美します。
御父の愛をほめたたえます。
御子の恵みを賛美します。
御聖霊の交わりに感謝します。
三一の神に、賛美と誉れと栄光と力が代々限りなくありますように。
私たちの主キリスト・イエス様の御名で祈ります。アーメン。

2022年2月26日 (土)

ロシアに対する経済制裁

 ロシアがウクライナに侵攻しました。
ウクライナにはウクライナの言い分がありますし、
ロシアにはロシアの言い分があります。

 欧、米、日、イスラエル、etc.には、それなりの言い分がありますし、
それに対するロシアにはロシアの言い分があります。

 それはそれとして、もし、ロシアへの経済制裁が功を奏すれば、もしかするとそれはエゼキエル38章の預言に突入していくのかも知れないな、とも思います。経済的困窮には一定の期間が必要でしょうが。
もしそうであるならば、キリストの空中再臨がまじかなのかもしれない、と思います。

 そうであるのかないのかは分かりません。
私たちキリスト者は、主の御旨に従い、一日一日を主と共に歩んでいくだけです。

 日々、主と共に歩んでいると、ある時突然、神のラッパの音を聞き、一瞬のうちに霊の体に変えられ、天に引き上げられるのです。
ハレルヤ!

 エゼキエル38,39章を読んでみてください。
国の名前が古代名で記されていますが、調べれば現代名に直すことができます。

 イスラエルは大変なことになりますが、イスラエルは大患難を通して、イエス・キリストが主である、と悟るのです。
エレミヤ30:7、ダニエル12:1、ゼカリヤ12-14章、etc.参照

詩篇18篇にみるダビデの体験に基づくダビデの神観6/ヤハウェ(主)こそまことの神

 詩篇1831-452017は次のように記しています。
“31
主〔ヤハウェ(筆者挿入)〕のほかにだれが神でしょうか。
私たちの神を除いてだれが岩でしょうか。
32
神は私に力を帯びさせ、私の道を全きものとされます。
33
主は私の足を雌鹿のようにし高い所に立たせてくださいます。
34
戦いのために私の手を鍛え、腕が青銅の弓も引けるようにしてくださいます。
35
あなたは御救いの盾を私に下さいます。あなたの右の手は私を支え、あなたの謙遜は私を大きくします。
36
あなたは私の歩みを大きくし、私のくるぶしはゆるみません。
37
私は敵を追ってこれに追いつき、絶ち滅ぼすまでは引き返しませんでした。
38
私が彼らを打ち砕いたので、彼らは立てず、私の足もとに倒れました。
39
あなたは戦いのために私に力を帯びさせ、向かい立つ者を私のもとにひれ伏させました。
40
あなたは、敵が、私を憎む者どもが、私に背を見せるようにされました。私は彼らを滅ぼしました。
41
彼らが主〔ヤハウェ(筆者挿入)〕に叫び求めても救う者はなく答えもありませんでした。
42
風の前のちりのように私は彼らを粉々に砕き、道の泥のように除き去りました。
43
あなたは民の争いから私を助け出し、国々のかしらに任じられました。私の知らなかった民が私に仕えます。
44
彼らは、耳で聞くとすぐ私に聞き従います。異国の人々は私にへつらいます。
45
異国の人々は打ちしおれ砦から震えて出て来ます。とあります。

 31節には、“主〔ヤハウェ(筆者挿入)〕のほかにだれが神でしょうか。
私たちの神を除いてだれが岩でしょうか。”とあります。

 キリスト者も同じことを言えます。
「父・子・聖霊なる三位一体の神の他に誰が神でしょうか。」と。
キリスト者になった人は、「父、子、聖霊の名においてバプテスマを授け」(マタイ28192017)られた人です。
大事なことは、霊的に三位一体の神の中に浸されることです。
マタイ2819NKJVは、“Go therefore and make disciples of all the nations, baptizing them in the name of the Father and of the Son and of the Holy Spirit,”と訳していますが、in the name の「in」と訳されている語のギリシア語原語は「εις」(イス)で第一義的には“into”(~の中へ) です。
マタイ2819をフランシスコ会訳は、 それ故、あなた方は行って、すべての国の人々を弟子にしなさい。父と子と聖霊の名に入れる洗礼を授け、”と訳しています。
父と子と聖霊の中へと浸された人がキリスト者です。
イエス様は、大祭司の祈りと言われるヨハネ17章で、「聖なる父よ・・・あなたが私に与えて下さっている名のうちに、彼らを守って下さい。」(11節抜粋・岩波訳)
「うちに」と訳されている語のギリシア語原語は「エン」で第一義的には“in”です。同様な意味に訳している日本語訳聖書には、文語訳と第三版までの新改訳があります。
1
コリント130前半を2017訳は、・・あなたがたは神によってキリスト・イエスのうちにあります。と訳しています。
そして父と子と聖霊は父を根源として一つなのです。

 詩篇1831後半には、私たちの神を除いてだれが岩でしょうか。2017)とあります。
「岩」と訳されている語のヘブライ語原語は「ツール」で、Strong辞書によると、第一義的には、cliff(崖、断崖、絶壁)で、通常は、岩と訳されますが、それ以外に、神の意もあり、更にその他の意もあります。
 余談になりますが、イエス様は、山上の説教のしめくくりの中で、
「ですから、わたしのこれらのことばを聞いて、それを行う者はみな、〔ギリシア語原語は「ペトラ」(筆者挿入)〕の上に自分の家を建てた賢い人にたとえることができます。」(マタイ7:24)と語られましたが、マタイ16:18では、「そこで、わたしもあなたに言います。あなたはペテロ〔ギリシア語原語は「ペトロス」(筆者挿入)〕です(2017)。わたしはこの岩〔ギリシア語原語は「ペトラ」で、大きな岩の意。ヘブライ語の「ツール」(岩)には「神」の意もあります。教会は神の家です{1テモテ315}(筆者挿入)〕の上に、わたしの教会を建てます。よみの門もそれに打ち勝つことはできません。」(2017)と語られました。

 32-45節には、ダビデがヤハウェ(主)によって、強められ、敵に勝利させていただけたことを中心にダビデ自身の証が記されています。実際には、どのようであったのか、についてはサムエル記に記されています。

 41節に、彼ら〔ダビデの敵たち(筆者挿入)〕が主〔ヤハウェ(筆者挿入)〕に叫び求めても救う者はなく答えもありませんでした。”とあります。
似たような話は新約聖書にもあります。
使徒言行録19章に次のような記事があります。
“11
神は、パウロの手を通して目覚ましい奇跡を行われた。
12
彼が身に着けていた手ぬぐいや前掛けを持って行って病人に当てると、病気はいやされ、悪霊どもも出て行くほどであった。
13
ところが、各地を巡り歩くユダヤ人の祈祷師たちの中にも、悪霊どもに取りつかれている人々に向かい、試みに、主イエスの名を唱えて、「パウロが宣べ伝えているイエスによって、お前たちに命じる」と言う者があった。
14
ユダヤ人の祭司長スケワという者の七人の息子たちがこんなことをしていた。
15
悪霊は彼らに言い返した。「イエスのことは知っている。パウロのこともよく知っている。だが、いったいお前たちは何者だ。」
16
そして、悪霊に取りつかれている男が、この祈祷師たちに飛びかかって押さえつけ、ひどい目に遭わせたので、彼らは裸にされ、傷つけられて、その家から逃げ出した。(新共同訳)と記されています。

<お祈り>
天のお父様。
あなたの御名を賛美します。
私が、あなたについて知っていることは僅かですが、あなたは、私のすべてを知っておられます。
あなたは、イエス・キリスト様を通してあなたを信じた人をあなたの御名の中に保ち、また、キリスト・イエス様の内においてくださいました。
ありがとうございます。
あなたは、私たちの神です。
私たちが、あなたに祈り願ったとき、「あなたを知らない」とは言われず、逆に「絶えず祈りなさい」と仰ってくださいますから感謝します。
私たちを守り、教え、支え、導き、助け、恵みによってお取り扱いくださいますから感謝します。
とこしえにあなたの御名が崇められますように。
私たちの主キリスト・イエス様の御名で祈ります。アーメン。

2022年2月25日 (金)

詩篇18篇にみるダビデの体験に基づくダビデの神観5

 詩篇18302017は次のように訳しています。
神その道は完全。
主〔ヤハウェ(筆者挿入)〕のことばは純粋。
主はすべて主に身を避ける者の盾。とあります。

 神その道は完全。とあります。
「道」と訳されている語のヘブライ語原語は「デレク」で、原義は、(踏み馴らされたような)道のことです。比喩的には、いのちの道、人生の道、生き方の道(方向)、{ふるまい(行為)の}様態(即ち、ものの根底にある本質や属性の現れ方) 

「完全」と訳されている語のヘブライ語原語は「ターミーム」で、原義は、完全な、無傷の、全部そろっている、の意です。誠実、正直、高潔、品位、完全(な状態)、完全性、全体性、真実、真理という意もあります。

「神」と訳されている語の冒頭には定冠詞がついていますから、二行目のヤハウェ(主)を指すでしょう。

併せて考えると、
ヤハウェ(主)というお名前の神の行為or生き方の方向(道)は完全(真理、高潔、誠実、真実)というような感じでしょうか。
とにかく、ヤハウェ(主)神の歩み方は完璧なのです。
ダビデは、ヤハウェ(主)との関わりにおいて、そのように感じたのだと思います。

 主〔ヤハウェ(筆者挿入)〕のことばは純粋。とあります。
「ことば」と訳されている語のヘブライ語原語は「イムラー」で、戒律、命令、おきて、話、話し言葉、等の意があります。

「純粋」と訳されている語のヘブライ語原語は「ツァラフ」で、(金属を)溶かすこと、不純物を除くこと、純化すること、が原義で、金細工職人、純粋な、混じりけがない、(罪や汚れを)きよめる、等の意があります。

新改訳は、主のことば(orみことば)は純粋というような訳仕方であり、
口語訳は、主の言葉は真実ですと訳し、
新共同訳&聖書協会共同訳は、主の仰せは火で練り清められていると訳し、
フランシスコ会訳は、主の仰せには混じり気がないと訳しています。

ヤハウェ(主)のことばは、不純物が混じっておらず、真理であり、(罪や汚れを)きよめる働きもある、とダビデは体験したのでしょう。

イエス様は、「私は真理である」(ヨハネ146)と語られ、また、「あなたがたは、わたしがあなたがたに話したことばによって、すでにきよいのです。」(ヨハネ1532017)と弟子たちに語られたことがありました。

ペテロは、イエス様と寝起きも食事も行動も
共にしていましたが、イエス様について、「その〔キリストの(筆者挿入)〕口には欺きもなかった。」(1ペテロ2222017)と述べています。

主はすべて主に身を避ける者の盾。2017)とあります。
新共同訳は、すべて御もとに身を寄せる人に、主は盾となってくださる。と訳し、
聖書協会共同訳は、主は御もとに逃れる者すべての盾と訳し、
口語訳は、主はすべて寄り頼む者の盾ですと訳し、
フランシスコ会訳は、主は、すべてみもとに逃れる者の盾と訳しています。

ダビデの生涯は戦いの連続でした。
サウルが命を狙ってきたときには、サウルを殺すことの出来る場面でも、主がサウルを王として立てたのだから、ということで、殺さずにお帰り頂く、ということもあったのです。
ダビデは、自分の体験を通して、「主はすべて主に身を避ける者の盾」だと言うことができたのです。ダビデは、戦いで命を落としたのではなく、ベッドの上で死んだのです。

<お祈り>
天のお父様。
あなたの御名を賛美します。
あなたはすべての善き事において完全なお方です。
あなたの御言葉は、嘘偽りがなく真実です。
あなたは、あなたに身を避ける者を守ってくださいますから感謝します。
ダビデがそのように言えた、ということは、あなたに信頼していたからであることを覚えます。
私たちも、いかなる状況に置かれても、あなたに信頼し続けて歩む者であらせてください。
私たちの主キリスト・イエス様の御名で祈ります。アーメン。
・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・
 “4神から生まれた者はみな、世に勝つからです。私たちの信仰、これこそ、世に打ち勝った勝利です。5世に勝つ者とはだれでしょう。イエスを神の御子と信じる者ではありませんか。1ヨハネ5章・2017
4神様の子供たちはみな、神様に従います。そして、キリスト様に信頼することによって助けを受け、罪と悪との楽しみに、打ち勝つことができるのです。5イエス様がほんとうに神の子であると信じる人以外に、この戦いに勝てる人はいません。”(リビングバイブル旧版)

2022年2月24日 (木)

詩篇18篇にみるダビデの体験に基づくダビデの神観4

 詩篇1825-28には次のように記されています。
“25
あなたは、恵み深い者には恵み深く、全き者には全き方。
26
清い者には清く、曲がった者にはねじ曲げる方。
27
まことにあなたは、苦しむ民を救い、高ぶる目を低くされます。
28
まことにあなたは、私のともしびをともされます。私の神、主〔ヤハウェ(筆者挿入)〕は、私の闇を照らされます。
29
あなたによって、私は防塞を突き破り、私の神によって城壁を跳び越えます。”(2017)とあります。

 25節の前半部分のあなたは、恵み深い者には恵み深く(新改訳)を、
聖書協会共同訳(26節になっています)は、あなたは忠実な者には忠実な方としてと訳し、
フランシスコ会訳(26節になっています)は、あなたは忠実な者には忠実でありと訳し、
新共同訳(26節になっています)は、あなたの慈しみに生きる人に、あなたは慈しみを示しと訳し、
口語訳(25節になっています)は、あなたはいつくしみある者には、いつくしみある者となりと訳しています。

 「恵み深い」、「忠実な」、「慈しみ深い」と訳されている語のヘブライ語原語は「ハーシード」で、第一義的には、優しい、親切な、思いやりのある、の意であり、更に信心深い、敬虔な、良い、聖い、慈悲深い、情け深い等の意があります。

 聖書協会共同訳とフランシスコ会訳は、対神的に、(神に対して)忠実な者には忠実な方として、の観点から訳したのかなと想像します。神に対して忠実な人は敬虔な聖い人ですから。
一方、新改訳、口語訳、新共同訳は、対人的な観点で訳したのではないだろうかと想像します。

 神に対して「忠実であり」、人に対して「慈しみ深い」人でありたいと思います。

 25節後半部分を2017は、“(あなたは、)全き者には全き方。”と訳しています。
「全き」と訳されている語のヘブライ語原語は「ターミーム」で、全くの、完全な、傷の無い、誠実、正直、高潔、真実、・・・等々の意があります。
「全き者」と訳している日本語訳聖書には、新改訳や聖書協会共同訳があり、新共同訳は「無垢な者」、口語訳は「欠けたところのない者」と訳しています。

 いずれにしてもダビデは、人に対するヤハウェ(主)の対応について、
“25
あなたは、(人に対して)恵み深い者には恵み深くor(神に対して)忠実な者に対しては忠実なお方、全き者には全きお方。
26
清い者には清く、曲がった者にはねじ曲げるお方。というように感じたと述べているのだと思います。

 新約的に言えば、父なる神様は、罪に落ちた人間を救うために、そして神の敵として歩んでいる人間のために、愛してやまないひとり子の御子を十字架上で人の罪の身代わりとしたほどに、一人一人の人を愛してくださったのです。その愛は御子も同じである(1ヨハネ49-11a、ピリピ26-8、ローマ56-10)ということを決して忘れることは出来ません。
その上で、詩篇1825,26を考えるべきではないかと思います。
新約聖書の中には、次のように記されている箇所があります。
“17
福音には神の義が啓示されていて、信仰に始まり信仰に進ませるからです。「義人は信仰によって生きる」と書いてあるとおりです。
18
というのは、不義によって真理を阻んでいる人々のあらゆる不敬虔と不義に対して、神の怒りが天から啓示されているからです。
19
神について知りうることは、彼らの間で明らかです。神が彼らに明らかにされたのです。
20
神の、目に見えない性質、すなわち神の永遠の力と神性は、世界が創造されたときから被造物を通して知られ、はっきりと認められるので、彼らに弁解の余地はありません。
21
彼らは神を知っていながら、神を神としてあがめず、感謝もせず、かえってその思いはむなしくなり、その鈍い心は暗くなったのです。
22
彼らは、自分たちは知者であると主張しながら愚かになり、23 朽ちない神の栄光を、朽ちる人間や、鳥、獣、這うものに似たかたちと替えてしまいました。
24
そこで神は、彼らをその心の欲望のままに汚れに引き渡されました。そのため、彼らは互いに自分たちのからだを辱めています。
25
彼らは神の真理を偽りと取り替え、造り主の代わりに、造られた物を拝み、これに仕えました。造り主こそ、とこしえにほめたたえられる方です。アーメン。
26
こういうわけで、神は彼らを恥ずべき情欲に引き渡されました。すなわち、彼らのうちの女たちは自然な関係を自然に反するものに替え、27 同じように男たちも、女との自然な関係を捨てて、男同士で情欲に燃えました。男が男と恥ずべきことを行い、その誤りに対する当然の報いをその身に受けています。
28
また、彼らは神を知ることに価値を認めなかったので、神は彼らを無価値な思いに引き渡されました。それで彼らは、してはならないことを行っているのです。(ローマ1章・2017)とあります。

 27節には、“まことにあなたは、苦しむ民を救い、高ぶる目を低くされます。”とあります。
「苦しむ民」(2017、聖書協会共同訳)と訳された箇所を、新共同訳は「貧しい民」、フランシスコ会訳は「哀れな者」、第三版は「悩む者」と訳しています。
以上のように訳されたような人は、地球上に大勢います。
そのような人たちが、もし、明らかにヤハウェ(主)に反逆していたら、ヤハウェ(主)は救うでしょうか?
神に敵対したままで救われようとしても難しいのではないでしょうか。
しかし、ひとたび神の御前にへりくだり、悔い改め、主に信頼すれば、主は救ってくださると思います。
詩篇3210には、「悪しき者は悲しみが多い。しかし主に信頼する者はいつくしみで囲まれる。」(口語訳)と記されています。
「悪しき者」を対神的に捉えると、三一の神を信じない者ということになります。
しかし、主の約束に信頼する者は、主の慈しみ、恵みに囲まれるのです。但し悔い改めるところがある場合には悔い改めが先行します。

 28,29節には、“28 まことにあなたは、私のともしびをともされます。私の神、主〔ヤハウェ(筆者挿入)〕は、私の闇を照らされます。
29
あなたによって、私は防塞を突き破り、私の神によって城壁を跳び越えます。2017)と記されていますが、これはダビデの体験であったことでしょう。
そしてまた、霊的、時には物質界的分野において、キリスト者にあっても同様でしょう。

<お祈り>
天のお父様。
あなたの御名を賛美します。
主の御前にへりくだり、主を愛し、主に信頼し、主に忠実に従うこと、即ち聖く歩むことが、如何に祝福の基であるのかということを教えてくださっておられます箇所を読ませていただきました。
ありがとうございます。
しかしそれ以前に、主イエス様の贖いの御業があった故であることを決して忘れることなく、常に感謝して歩み続ける者であらせてください。
私たちの主キリスト・イエス様の御名で祈ります。アーメン。

2022年2月23日 (水)

詩篇18篇にみるダビデの体験に基づくダビデの神観3

 詩篇1820-24には次のように記されています。これは昨日の続きです。
“20
主〔ヤハウェ(筆者挿入)〕は、私の義にしたがって私に報い、
手のきよさにしたがって顧みてくださいました。
21
私は主〔ヤハウェ(筆者挿入)〕の道を守り、私の神に対して悪を行いませんでした。
22
主のすべてのさばきは私の前にあり、主のおきてを私は遠ざけませんでした。
23
私は主の前に全き者。
自分の咎から身を守ります。
24
主〔ヤハウェ(筆者挿入)〕は、私の義にしたがって顧みてくださいました。
御目の前のこの手のきよさにしたがって。2017

 20節には、「主〔ヤハウェ(筆者挿入)〕は、私の義にしたがって私に報い」とあります。
私たちキリスト者は、キリストを信じたことの故に、義と認められ(ローマ322,26,30)、キリストが私たちの義となってくださいました(1コリント130)。
それ故、義なる御父のみ前に立つことができるのです。
もしそうでなかったならば、火の池を待つのみです(黙示録2015)。
新生した者は、天の御父の家に入れていただけるのです(ヨハネ141-3)。

 21
節には、「私は主〔ヤハウェ(筆者挿入)〕の道を守り、私の神に対して悪を行いませんでした。」とありますが、そのように言えるのはイエス様だけです。
私たちキリスト者は、自分が罪人である、すなわち神に対して不従順な生き方をしてきたことを認めた者たちです。自分が罪人であることを神のみ前で認め、イエス様を自分の救い主として、そして主として受け入れた者が救われるのです。自分の行いに頼って救われようとしても救われません(ヤコブ210)。自分の行いに頼ること自体が、神に対して不従順です。神は、人の罪をご覧になり、救い主を遣わしたのに、それを受け入れないことになるから、或いは、キリストの贖いだけでは不足であると言っているのだからです。

 23節には、「私は主の前に全き者。自分の咎から身を守ります。」とあります。
このように言えるのは、イエス様を信じた後のことです。
 「私は主の前に全き者。」と言えるのは、主のおかげです。
ヘブル1010には、イエス・キリストのからだが、ただ一度だけ献げられたことにより、私たちは聖なるものとされています。”(2017)と記されています。
これが御父のみ前における新生したキリスト者の立場です。

 「私は自分の咎から身を守ります。」とあります。
このようなことを自分のみの力で出来ると思ったらそれは錯覚というか大間違いです。キリスト者の敵はサタン(ヘブライ語原語は「サーターン」で、敵対者の意。悪魔、古い蛇、竜、・・・等々ともいう)で、人や自然を使ってキリスト者を殺すこともありますし、誘惑(その種類はいくつあるのかというほどに色々あります)を用いて堕罪させ神から離れさせようとすることもします。また光の御使いにも変装するのです(2コリント1114)。
しかし、キリスト者のうちには聖霊が遣わされています。聖霊は霊を見分ける能力を与えてくださるお方です。即ち、霊を見分ける能力は聖霊の賜物です(1コリント1210)。
私たちは、天においても地においても一切の権能を授かっているキリスト・イエス(マタイ2818)の御名or神のことば(黙示録1913、ヨハネ11,14)によって勝利していくのです。キリストは神のことばでもあります。神のことばはサタンに対する攻撃の武器です。
エペソ617には、「また、救いを兜としてかぶり、霊の剣、すなわち神の言葉を取りなさい。」(新共同訳)と記されています。〔「霊の剣」と訳している日本語訳聖書には、新共同訳、聖書協会共同訳、岩波訳、フランシスコ会訳、前田訳等があります(筆者挿入)〕
サタン(悪魔)・悪霊の攻撃を防御するものはキリスト信仰、すなわち神のことば信仰です。エペソ614-16には、「14 ・・・。腰には真理の帯を締め、胸には正義〔義(岩波訳)〕の胸当てを着け、15 足には平和の福音の備えをはきなさい。16 これらすべての上に、信仰の盾〔ギリシア語原語は「トゥレオス」で大楯の意もあります。第三版は「大楯」と訳しています。(筆者挿入)〕を取りなさい。それによって、悪い者が放つ火矢をすべて消すことができます。」(2017)

 22節を聖書協会共同訳は、「私は主の道を守り、わが神に悪をなさなかった。」と訳しています。
キリスト者は、誰一人このようなことを言わないでしょう。
このように言えるのは、イエス・キリスト様だけであり、イエス・キリスト様以外の人がこのように言った瞬間、その人は嘘をついているのか、神が罪と呼ぶものを罪と認識していないのです。
使徒ヨハネは次のように述べています。
「もし自分には罪がないと言うなら、私たちは自分自身を欺いており、私たちのうちに真理はありません。」(2017)と。

 24節には、「主〔ヤハウェ(筆者挿入)〕は、私の義にしたがって顧みてくださいました。」とあります。
前述したように、私たちキリスト者は、私たちの罪のために十字架にかかられて贖いを成就してくださり、三日目によみがえられたイエス(ヘブライ語原語は「イェシュア」=神は救う、救い主)という名をつけなさいと神が言われた(マタイ121)キリスト(油注がれた者)を信じた故に、義と認められたのです。
ローマ330には、実に、神は唯一だからです。この神は、割礼のある者を信仰のゆえに義とし、割礼のない者をも信仰によって義としてくださるのです。(新共同訳)と記されています。
イエス様は十字架にかかられる前に弟子たちに、「父ご自身があなたがたを愛しておられるのです。あなたがたがわたしを愛し、わたしが神のもとから出て来たことを信じたからです。」(ヨハネ16272017)と言われました。
イエス様を愛し、イエス様が父なる神のもとから出て来たことを信じた人を、御父は愛してくださっておられるのです。
御父の愛は、その質において完全であり、その量ははかり知れません。
御子も同様です。

<お祈り>
天のお父様。
あなたの御名を賛美します。
今日の聖句をキリストについての預言と捉えるとしっくりきますが、ダビデにあてはめると違っていることを覚えます。
イエス様が、私たちにとって、神の義と聖と贖いになってくださいましたことを感謝します。
霊の人として、聖霊に導かれて歩み続ける者であらせてください。
私たちの主キリスト・イエス様の御名で祈ります。アーメン。
・・・・・・・・・・・・・・・・・・
・・・キリスト・イエスは、わたしたちにとって神からの知恵、つまり、わたしたちを義とし、聖なるも のとさせ、また、罪から贖う方となられたのです。1コリント130・フランシスコ会訳)
ハレルヤ!

2022年2月22日 (火)

詩篇18篇にみるダビデの体験に基づくダビデの神観2

 詩篇1820-24には次のように記されています。
“20
主〔ヤハウェ(筆者挿入)〕は、私の義にしたがって私に報い、
手のきよさにしたがって、顧みてくださいました。
21
私は主〔ヤハウェ(筆者挿入)〕の道を守り、私の神に対して悪を行いませんでした。
22
主のすべてのさばきは私の前にあり、主のおきてを私は遠ざけませんでした。
23
私は主の前に全き者。自分の咎から身を守ります。
24
主〔ヤハウェ(筆者挿入)〕は、私の義にしたがって顧みてくださいました。
御目の前のこの手のきよさにしたがって。2017)とあります。

 ダビデのこの詩の箇所は、バテ・シェバ事件以前に書かれたものか、あるいはダビデが新約的に捉えていたと解釈しなかったならば理解できません。
ダビデは、バテ・シェバの裸を見て姦淫を起こしたのです。その結果、バテ・シェバは妊娠しました。ダビデはそれを隠ぺいするためにバテ・シェバの夫ウリヤに対し殺人教唆の罪を犯したのです。

 ダビデは、十の言葉(十戒)の中の、あなたの隣人の妻を欲しがってはならない、姦淫してはならない、殺してはならない、という戒めを破ったのです。

 ダビデは次のようなメシア預言をしました。詩篇1101に、
主〔ヤハウェ(筆者挿入)〕は、私の主〔アドニ―(筆者挿入)〕に言われた。
「あなたは、わたしの右の座に着いていなさい。
わたしがあなたの敵をあなたの足台とするまで。」2017)とダビデは記しています。

 使徒ペテロは、ペンテコステの日に、この詩篇の箇所を用いて、説教しています。
この詩篇では、ヤハウェ(主)は、父なる神です。アドニは、アドン即ち主or主人、・・に、イーを末尾につけて、私の主、という語にしてあるのです。
ダビデは、神様から啓示を受けてメシア預言をしていますが、それだけではなく、御子を私の主と呼んでいるのです。

 ダビデは、前述の罪を犯しましたが、罪を告白し、神様にきよめてもらい、回復させていただきました。
これはキリストの十字架の先取り、というか、ダビデの後の時代のイエス・キリストの贖いを土台としての罪の赦しときよめであったのです。

 ダビデが罪を犯した後のダビデの状況を、ダビデは詩篇32篇で次のように述べています。
3 私には、罪状を認めたくない時がありました。
しかし、私はかえってみじめになり、来る日も来る日も挫折感にとらわれて過ごしました。
4
神の御手が、いつも重くのしかかっていました。
私の力は、強烈な日ざしの照り付ける水たまりのように干上がりました。
5
とうとう私は、自分の罪を神の前にさらけ出さざるをえませんでした。
「何もかも主にお話ししよう」と決心したのです。
すると、あなたは赦してくださいました。
私の罪は跡形もなく消えたのです。 」(意訳・リビングバイブル)

 ダビデが罪の重荷にうめいたときの悔い改めの祈りが詩篇51篇に次のように記されています。
1 ああ、愛と恵みにあふれる神よ。
私をあわれんで、恐ろしい罪の汚れをぬぐい去ってください。
2
どうか私を洗い、この罪からきよめて、もう一度、潔白な身としてください。
3
私は、自分がどんな恥ずべきことをしたか、よく存じております。
そのことで昼も夜も責めさいなまれているのです。
4
私はあなたに、ただあなたに罪を犯し、この恐ろしいことをしてしまいました。
すべてをご存じのあなたが下すさばきに、誤りはありません。
5
私は生まれながらの罪人です。
母が私をみごもった時から、罪人でした。
6
あなたがお喜びになるのは、徹底した正直さです。
ああ、そのことを私に心底わからせてください。
7
汚れをきよめる血を振り注いでください。
再び身も心もきれいになれるように、私を洗ってください。
そうすれば、雪よりも白くなるでしょう。
8
罰は受けます。
でもそののち、喜びを取り戻させてください。
9
どうか、いつまでもこの罪を見続けず、あなたの目から消し去ってください。
10
ああ神よ。
どうか、きよい思いと正しい願いで満たされた、新しいきれいな心にしてください。
11
私を見限って、永久に御前から追放しないでください。
聖霊を私から取り上げないでください。
12
救いの喜びを再び鮮やかにして、心からあなたに従おうとする思いに満たしてください。
13
私のように罪深い者たちに、私はあなたの道を教えます。
きっと悔い改めて、あなたに立ち返ることでしょう。
14,15
ああ神よ。
私の頼むところはあなただけですから、どうか死刑の宣告を下さないでください。
助けてくださるなら、私の舌はゆるみ、あなたの赦しを高らかに歌いだすでしょう。
ああ、私はどれほどあなたをほめたたえるでしょう。
16
あなたは罪滅ぼしに何かをせよとはおっしゃいません。
もしそうおっしゃるなら、喜んで仰せに従うでしょう。
あなたは、祭壇で焼かれる供え物〔全焼のささげ物(2017)〕を求めておられるわけではありません。〔全焼のささげ物は、献身の予型ですから、それは罪を処理された後のことです。(筆者挿入)〕
17
あなたがお望みなのは、悔い改めて、くずおれたたましいです。
ああ神よ。
罪を深く後悔して砕かれた心にこそ、あなたは目を留めてくださるのです。
18
どうか主よ、私の罪のためにイスラエルの国を罰しないでください。
あなたの民を助け、エルサレムをお守りください。
19
私が潔白の身となってはじめて、あなたは私の善行と、祭壇に供えるいけにえ〔全焼のささげ物(2017)〕の雄牛とを、喜んで受け入れてくださることでしょう。」(意訳・リビングバイブル)とダビデは祈りました。

 そしてダビデは祈りの応答を神様から頂き、次のように記したのです。
「罪を赦された人は、どれほど幸せなことでしょう。
罪がすっかり消された喜びは、どれほど大きいことでしょう。
罪を告白し、その記録を消し去ってもらった人は、どれほど解放感を味わうことでしょう。」(詩篇321,2意訳・リビングバイブル)と。
 イエス様は、私たちのすべての罪をご自身の身に負って十字架上で義なる神から呪われた者となってくださいました(ガラテヤ313)。即ち罪の罰を受けたのです。
それ故に、私たちは、罪を告白すれば、キリストの血の故に赦されるのです。

 レビ1711には、実に、肉のいのちは血の中にある。わたしは、祭壇の上〔キリストにとっては十字架上(筆者挿入)〕であなたがたのたましいのために宥めを行うよう、これをあなたがたに与えた。いのちとして宥めを行うのは血である。2017)と記され、
ヘブル922には、律法によれば、ほとんどすべてのものは血によってきよめられます。血を流すことがなければ、罪の赦しはありません。2017)と記されています。

 イエス様は、すべての人の罪をご自身の身に負って十字架上で血を流して死なれたことを御父は見届けました。そして、それは神にとって愛と義にかなったことであり、キリストの行為が義であることを3日目に公にされたのです。即ち、イエスを復活させました。
 パウロは、イエス様を信じた者、即ちイエス様を心にお迎えした者に対して、「あなたがたは神によってキリスト・イエスのうちにあります。キリストは、私たちにとって神からの知恵、すなわち、義と聖と贖いになられました。」(1コリント1302017)と述べています。

 今日の詩篇の箇所は、まるでダビデが新約(新契約)の人であるかのようです。
というか、旧約も新約もその真髄は同じです。同じ神様が聖書記者に書かせたのですから。

<お祈り>
天のお父様。
あなたの御名を賛美します。
イエス様の贖いを感謝します。
イエス様がよみがえられたことによって、先ずは霊において新しく生まれさせて頂けたことを感謝します。
あなたは、魂もきよめてくださるお方ですから御名を崇めて感謝します。
あなたのみ前を聖く歩む者であらせてください。
私たちの主キリスト・イエス様の御名で祈ります。アーメン。
・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・
私たちの主イエス・キリストの父である神がほめたたえられますように。神は、ご自分の大きなあわれみのゆえに、イエス・キリストが死者の中からよみがえられたことによって、私たちを新しく生まれさせ、生ける望みを持たせてくださいました。1ペテロ132017

2022年2月21日 (月)

詩篇18篇にみるダビデの体験に基づくダビデの神観1

 詩篇18篇は2サムエル22章とほぼ同じです。
詩篇18篇の表題に指揮者によって。主の僕ダビデの詩。
主がダビデをすべての敵の手、またサウルの手から助け出した日、彼はこの歌の言葉を主に語った。(聖書協会共同訳)と記されています。

 聖書協会共同訳が、・・・主がダビデをすべての敵の手、またサウルの手から助け出した日・・・と訳した中の「また」の箇所を2017は、「特に」と訳し、2017は、・・・主がダビデを、すべての敵の手、特にサウルの手から救い出された日に・・・としています。「また」(聖書協会共同訳)と訳された語のヘブライ語原語は「ヴェ」で、ここでは、and の意だと思います。

 詩篇18篇は、ヤハウェ(主)が、ダビデをサウル及び周辺諸国の敵から守られた後に書かれた詩篇ということになりますから、とても重い価値を持っていると私には思えます。ダビデはサウルに執拗に追われ、また他国との戦いのさなかで死ぬのではないかと思われるようなところを通ったこともあった人です。しかし、主はダビデを守られ、ダビデは、老人になってベッドの上で死んだのです。

 ダビデは親友ヨナタンに次のように語った場面があります。1サムエル20章には次のように記されています。
“1
ダビデはラマのナヨテから逃げて、ヨナタンのもとに来て言った。
「私があなたの父上〔サウル王(筆者挿入)〕の前に何をし、私にどんな咎があり、どんな罪があるというのですか。父上が私のいのちを求めておられるとは。」
2
ヨナタンは彼に言った。
「とんでもないことです。あなたが死ぬはずはありません。父は、事の大小を問わず、私の耳に入れずに何かをするようなことはありません。どうして父が、このことを私に隠さなければならないでしょうか。そんなことはありません。」
3
ダビデはなおも誓って言った。
「父上〔サウル(筆者挿入)〕は、私があなたのご好意を受けていることを、よくご存じです。『ヨナタンが悲しまないように、このことを知らせないでおこう』と思っておられるのです。けれども、主〔ヤハウェ(筆者挿入)〕は生きておられます。あなたのたましいも生きておられます〔主は~二度目の「生きておられます」までは、「主とあなたに誓って言うけれども、本当に」の意(筆者挿入)〕。私と死の間には、ほんの一歩の隔たりしかありません。」2017)とあります。
ヤハウェ(主)抜きで、人間的に考えれば、ダビデは、しばしばサウル王の前にそのような状態であったのです。
 
また、2サムエル21章には次のような記事が記されています。
“15
ペリシテ人が再びイスラエルに戦いを仕掛けたことがあった。ダビデは自分の家来たちを連れて下り、ペリシテ人と戦ったが、ダビデは疲れていた。
16
ラファの子孫の一人であったイシュビ・ベノブは、「ダビデを討つ」と言った。
彼の槍の重さは青銅で三百シェケル。そして彼は新しい剣を帯びていた。
17
ツェルヤの子アビシャイはダビデを助け、このペリシテ人を打ち殺した。
そのとき、ダビデの部下たちは彼に誓って言った。
「あなたは、もうこれから、われわれと一緒に戦いに出ないでください。あなたがイスラエルのともしびを消さないために。」2017)とあります。

 上記の2例のみならず、ダビデはサウルから幾たびも殺されそうになり、異邦人からも極めて危険な目にあわされたことが幾度もあったのです。

 そのような状態のときのダビデの祈りと、ダビデに対するヤハウェ(主)の対応を、ダビデは詩篇184-19に次のように記しています。
“4
死の綱は私を取り巻き、滅びの激流〔「敵の軍隊」のことでしょう(筆者挿入)〕は私をおびえさせた。
5
よみの綱は私を取り囲み、死の罠は私に立ち向かった。〔私は罠に落ち、助けてくれる人もなく、死へと引きずり込む綱の力に抵抗してもがきました。(リビングバイブル)〕
6
私は苦しみの中で主〔ヤハウェ(筆者挿入)〕を呼び求めわが神に叫び求めた。主はその宮で私の声を聞かれ、御前への叫びは御耳に届いた。
7
地は揺るぎ、動いた〔地震(筆者挿入)〕。山々の基も震え、揺れた。主がお怒りになったからだ。
8
煙は鼻から立ち上り、その口から出る火は貪り食い、炭火は主から燃え上がった。
9
主は、天を押し曲げて降りて来られた。黒雲をその足の下にして。
10
主は、ケルビムに乗って飛び、風の翼で天翔(あまがけ)られた。
11
主は闇を隠れ家とし、水の暗闇、濃い雲を、ご自分の周りで仮庵とされた。
12
御前の輝きから、密雲を突き抜けて来たもの。それは雹と燃える炭。
13
主〔ヤハウェ(筆者挿入)〕は天に雷鳴を響かせいと高き方は御声を発せられた。雹そして燃える炭。
14
主はご自分の矢〔稲妻でしょう(筆者挿入)〕を放って彼らを散らしすさまじい稲妻を放ってかき乱された〔9-14節は、恐らく強烈な雷{稲妻と雷鳴と大雨}の連続でしょう(筆者挿入)〕。
15
こうして水の底が現れ地の基があらわにされた〔烈風によるのでしょう(筆者挿入)〕。主〔ヤハウェ(筆者挿入)〕よ、あなたのとがめにより、あなたの鼻の荒い息吹によって。
16
主は、いと高き所から御手を伸ばして私を捕らえ、大水〔押し寄せる敵の軍隊のことでしょう(筆者挿入)〕から私を引き上げられました。
17
主は力ある敵から私を救い出されました。私を憎む者どもからも。彼らが私より強かったからです。
18
私のわざわいの日に彼らは立ちはだかりました。けれども主〔ヤハウェ(筆者挿入)〕は私の支えとなられました。
19
主は私を広いところに導き出し私を助け出してくださいました。主が私を喜びとされたからです。2017)とあります。

 ダビデが死を覚悟するような苦境に陥った時、ヤハウェ(主)は、現代人が自然現象と言うところの地震や激しい雷(稲妻と雷鳴)そして雹、また火山の噴火をも思わせる描写もありますが、それらを引き起こし、それらによって敵を恐怖のどん底に落とし、人によっては稲妻に打たれて死ぬ、雹に打たれて死ぬ、というようなことも起こったのでしょう。

 実はダビデに限らず、これらの方法を主が採用することがあります。
 ヨシュア記10章には次のような記事が記されています。
“8
主〔ヤハウェ(筆者挿入)〕はヨシュアに告げられた。「彼らを恐れてはならない。わたしが彼らをあなたの手に渡したからだ。あなたの前に立ちはだかる者は彼らの中に一人としていない。」
9
ヨシュアは夜通しギルガルから上って行って、突然彼らを襲った。
10
主〔ヤハウェ(筆者挿入)〕は彼らをイスラエルの前でかき乱された。イスラエルはギブオンで彼らを激しく討ち、ベテ・ホロンの上り坂を通って彼らを追い、アゼカとマケダに至るまで彼らを討った。
11
彼らがイスラエルの前から逃げて、ベテ・ホロンの下り坂にいたとき、主〔ヤハウェ(筆者挿入)〕が天から彼らの上に、大きな石〔大きな雹(筆者挿入)〕をアゼカに至るまで降らせられたので、彼らは死んだ。イスラエルの子らが剣で殺した者よりも、雹の石で死んだ者のほうが多かった。2017)とあります。

 このようなことは昔のことでしょ、という人がいるかもしれませんが、これからも起こるのです。

 エゼキエル38章は、これから起こる戦争の預言です。
ロシア、イラン、トルコ、リビア、スーダン(以上の国々について聖書は古代名で記しています)が、略奪のためにイスラエルを攻撃します。
その時、ヤハウェ(主)は、次のようなことを行うのです。
“16
おまえはわたしの民イスラエルを攻めに上り、地をおおう雲のようになる。終わりの日〔「日」と訳されている語のヘブライ語原語は「ヨミーム」で複数形(筆者挿入)〕に、そのことは起こる。ゴグよ、わたしはおまえに、わたしの地を攻めさせる。それは、わたしがおまえを使って、国々の目の前にわたしが聖であることを示し、彼らがわたしを知るためだ。
17
神である主〔アドナイ・ヤハウェ(筆者挿入)〕はこう言う。おまえは、わたしが昔、わたしのしもべであるイスラエルの預言者たちを通して語った、まさにその者ではないか。この預言者たちは長年にわたり、わたしがおまえに彼らを攻めさせると預言していたのだ。』
18
ゴグがイスラエルの地を攻めるその日〔「日」は単数形(筆者挿入)〕──神である主〔アドナイ・ヤハウェ(筆者挿入)〕のことば──わたしの憤りは激しく燃え上がる。
19
わたしは、ねたみをもって、激しい怒りの火をもって告げる。その日〔「日」は単数形(筆者挿入)〕には必ずイスラエルの地に大きな地震が起こる。20 海の魚、空の鳥、野の獣、地面を這うすべてのもの、地上のすべての人間は、わたしの前で震え上がり、山々はくつがえり、崖は落ち、すべての城壁は地に倒れる。
21
わたしは剣を呼び寄せて、わたしのすべての山々でゴグを攻めさせる──神である主〔アドナイ・ヤハウェ(筆者挿入)〕のことば──。剣による同士討ちが起こる。
22
わたしは疫病と流血で彼に罰を下し、彼と、彼の部隊と、彼とともにいる多くの国々の民の上に豪雨、雹、火、硫黄〔恐らく豪雨、雷、雹、火山の噴火でしょう(筆者挿入)〕を降らせる。
23
わたしは、わたしが大いなる者であること、わたしが聖であることを示し、多くの国々の見ている前でわたしを知らせる。そのとき彼らは、わたしが主〔ヤハウェ(筆者挿入)〕であることを知る。」2017)とあります。

 また大患難時代末期には、次のようなことが起こると次のように記されています。
“17
第七の御使いが鉢の中身を空中に注いだ。すると大きな声が神殿の中から、御座から出て、「事は成就した」と言った。
18
そして稲妻がひらめき、雷鳴がとどろき、大きな地震が起こった。これは人間が地上に現れて以来、いまだかつてなかったほどの、大きな強い地震であった。
19
あの大きな都は三つの部分に裂かれ、諸国の民の町々は倒れた。神は大バビロンを忘れず、ご自分の激しい憤りのぶどう酒の杯を与えられた。
20
島はすべて逃げ去り、山々は見えなくなった〔地殻変動(筆者挿入)〕。
21
また、一タラント〔34kg(筆者挿入)〕ほどの大きな雹が、天から人々の上に降った。この雹の災害のために、人々は神を冒涜した。その災害が非常に激しかったからである。2017)とあります。

 主にあって真実に歩んでいる人は、大患難時代には天にいることでしょう。
ルカ2137に、「しかし、あなたがたは、必ず起こるこれらすべてのこと〔大患難時代の災い(筆者挿入)〕から逃れて、人の子の前に立つことができるように、いつも目を覚まして祈っていなさい。」(2017)とイエス様が語っておられますから。

 日本の80台以上の方々は、戦争の記憶があると思います。戦争は大変でした。高齢者ではなくても、大地震、津波、疫病(コロナも含む)を体験した人はいますが、大患難時代は、それらの比ではありません。天変地異までも起こるのです。現在物価が上昇していますが、大患難時代の初期の頃には、既に、1日に一人が働いて得た賃金で一人が食べていける、というようになっていくのです(黙示録66)。

 
主と共に歩み、携挙の恵みにあずかることの重要性を覚えます。

大分話が横道にそれましたが、ダビデは、自分の経験をももとにして、
1 ・・・わが力なる主〔ヤハウェ(筆者挿入)〕よ。私はあなたを慕います。2 主〔ヤハウェ(筆者挿入)〕はわが巌、わが砦、わが救い主、身を避けるわが岩、わが神。わが盾、わが救いの角、わがやぐら。3 ほめたたえられる方。この主〔ヤハウェ(筆者挿入)〕を呼び求めると、私は敵から救われる。」(2017)と言いました。

 同じ個所をリビングバイブルは次のように意訳しています。
1 主よ。私はどれほど主をお慕いしていることでしょう。
こんなにもすばらしいことをしてくださった主を。
2
主は、安心して身を寄せることのできるとりでです。
誰ひとり、このとりでに入って来て、私を殺すことは出来ません。
主は、身を隠すことができる険しい山であり、私の救い主です。
だれも近づくことのできない岩、安全を守る塔、また私の盾です。
3
私はただ、主に叫び求めさえすればよいのです。
そうすれば主は、あらゆる敵から助けてくださいます。
ああ、主をほめたたえます。」とあります。

 キリスト者のうちには主が住んでくださっておられ(コロサイ127)、天使も遣わされます(ヘブル114)。主に信頼することが大切です。

<お祈り>
天のお父様。
あなたの御名を賛美します。
あなたを愛し、あなたに信頼して、あなたに従い、あなたにあって歩み続ける者であらせてください。
私たちの主キリスト・イエス様の御名で祈ります。アーメン。

2022年2月20日 (日)

ヤコブの妻たちの間の嫉妬

 ヤコブが現れる前のレア(姉)とラケル(妹)の関係はどのようなものであったのでしょうか?
それについて聖書は語っていません。
 レアは、優しい目をしていた人でした(創世記2917・新共同訳、聖書協会共同訳、フランシスコ会訳)。
同箇所について、2017の欄外には、別訳「穏やかだった」と記されていますから、「レアは穏やかだった。」という訳もあるのです。

 イエス様は、「からだの明かりは目です。ですから、あなたの目が健やかなら〔目が澄んでいれば(新共同訳)〕全身が明るくなりますが、目が悪ければ全身が暗くなります。ですから、もしあなたのうちにある光が闇なら、その闇はどれほどでしょうか。」(マタイ622.232017)と語られました。
イエス様の御言葉を基にしてかどうかは分かりませんが、英語には、The eyes are the window of the soul.とあり、「目は心の窓」or「目は心の鏡」と言いますし、
孟子も「人をみるは、まなこより良きはなし」と言っています。

 それからすると、レアは、元来は優しい人であったのでしょう。
 
 一方、ラケルは、「ラケルは見目麗しかった。」(創世記2917・フランシスコ会訳)と記されています。

 創世記2918-31には次のように記されています。
“18
ヤコブはラケルを愛していたので、「下の娘のラケルをくださるなら、わたしは七年間あなたの所で働きます」と言った。
19
ラバンは答えた。「あの娘をほかの人に嫁がせるより、お前に嫁がせる方が良い。わたしの所にいなさい。」
20
ヤコブはラケルのために七年間働いたが、彼女を愛していたので、それはほんの数日のように思われた。
21
ヤコブはラバンに言った。「約束の年月が満ちましたから、わたしのいいなずけと一緒にならせてください。」
22
ラバンは土地の人たちを皆集め祝宴を開き、
23
夜になると、娘のレアをヤコブのもとに連れて行ったので、ヤコブは彼女のところに入った。
24
ラバンはまた、女奴隷ジルパを娘レアに召し使いとして付けてやった。
25
ところが、朝になってみると、それはレアであった。ヤコブがラバンに、「どうしてこんなことをなさったのですか。わたしがあなたのもとで働いたのは、ラケルのためではありませんか。なぜ、わたしをだましたのですか」と言うと、
26
ラバンは答えた。「我々の所では、妹を姉より先に嫁がせることはしないのだ。
27
とにかく、この一週間の婚礼の祝いを済ませなさい。そうすれば、妹の方もお前に嫁がせよう。だがもう七年間、うちで働いてもらわねばならない。」
28
ヤコブが、言われたとおり一週間の婚礼の祝いを済ませると、ラバンは下の娘のラケルもヤコブに妻として与えた。
29
ラバンはまた、女奴隷ビルハを娘ラケルに召し使いとして付けてやった。
30
こうして、ヤコブはラケルをめとった。
ヤコブはレアよりもラケルを愛した。そして、更にもう七年ラバンのもとで働いた。
31
主は、レアが疎んじられている〔レアが嫌われている(2017)〕のを見て彼女の胎を開かれたが、ラケルには子供ができなかった。(新共同訳)とあります。

 このような状態に置かれたレアは、気弱になったり、ラケルを嫉妬したのではないかと思います。
ラケルに対するレアの嫉妬は、創世記3014-16に次のように記されています。
“14
小麦の刈り入れのころ、ルベンは野原で恋なすびを見つけ、母レアのところへ持って来た。
ラケルがレアに、「あなたの子供が取って来た恋なすびをわたしに分けてください」と言うと、
15
レアは言った。「あなたは、わたしの夫を取っただけでは気が済まず、わたしの息子の恋なすびまで取ろうとするのですか。」
「それでは、あなたの子供の恋なすびの代わりに、今夜あの人があなたと床を共にするようにしましょう」とラケルは答えた。
16
夕方になり、ヤコブが野原から帰って来ると、レアは出迎えて言った。「あなたはわたしのところに来なければなりません。わたしは、息子の恋なすびであなたを雇ったのですから。」その夜、ヤコブはレアと寝た。(新共同訳)とあります。

 ラケルもレアに嫉妬しました。
創世記301-3には次のように記されています。
“1
ラケルは自分がヤコブに子を産んでいないのを見た。
ラケルは姉に嫉妬し、ヤコブに言った。「私に子どもを下さい。でなければ、私は死にます。」
2
ヤコブはラケルに怒りを燃やして言った。「私が神に代われるというのか。胎の実をおまえに宿らせないのは神なのだ。」
3
彼女は言った。「ここに、私の女奴隷のビルハがいます。彼女のところに入り、彼女が私の膝に子を産むようにしてください。そうすれば、彼女によって私も子を得られるでしょう。」2017)とあります。

 ヤコブが来る前のレアとラケルは嫉妬の故に激しく戦うということはなかったことでしょう。ラケルが容姿端麗であったとしても、レアは優しい目をしていたのですから。
結婚後のレアの目は、弱々しくなったり、怒りに満ちたりしたことでしょう。

 ラケルは、ラケルの長子ヨセフを産み(創世記3024)、次にベニヤミンを産みました(創世記3516-18)。ラケルはベニヤミンを産んだのち死にました。
これによって、レアとラケルの確執は終わったことでしょう。

 しかし、ヤコブは、ラケルの子どもを他の子どもたちよりも特別に扱っていました。
それ故、今度は子供の間で嫉妬やそれに伴う出来事が起こっていったのです。

 ヤコブの手紙には、私の兄弟たち。あなたがたは、私たちの主、栄光のイエス・キリストへの信仰を持っていながら、人をえこひいきすることがあってはなりません。(ヤコブ212017)と記されています。

<お祈り>
天のお父様。
あなたの御名を賛美します。
人によって難しさの違いはあるでしょうが、えこひいきをしないこと、嫉妬をしないこと、その他の数多くの個々の罪を自分で解決していくということは、とても難しいことです。何しろ、生まれたときから罪の性質を持って生まれてくるのですから。
しかし、あなたは、そのような私たちを変えることがお出来になりますから御名を崇めて感謝します。
あなたの御旨に基づいた歩みをすることができますようお整え下さい。
私たちの主キリスト・イエス様の御名で祈ります。アーメン。

2022年2月19日 (土)

誓いについて

 マタイ533-37には、
“33
また、昔の人々に対して、『偽って誓ってはならない。あなたが誓ったことを主に果たせ』と言われていたのを、あなたがたは聞いています。
34
しかし、わたしはあなたがたに言います。
決して誓ってはいけません。
天にかけて誓ってはいけません。そこは神の御座だからです。
35
地にかけて誓ってもいけません。そこは神の足台だからです。
エルサレムにかけて誓ってもいけません。そこは偉大な王の都だからです。
36
自分の頭にかけて誓ってもいけません。あなたは髪の毛一本さえ白くも黒くもできないのですから。
37
あなたがたの言うことばは、『はい』は『はい』、『いいえ』は『いいえ』としなさい。
それ以上のことは悪い者〔「悪」(口語訳)〕から出ているのです。2017)と記されています。

 この箇所は、2015年920 ()に記した箇所です。
今回はその時の文章に使用聖書の変更、及び加筆をして記します。

 神様はモーセを通して、「わたしの名を用いて偽り誓ってはならない。それによってあなたの神の名を汚してはならない。わたしは主である。」(レビ1912・新共同訳)と語られました。
 また、民数記302には、「人がもし、主に誓願をし、あるいは、物断ちをしようと誓いをするなら、そのことばを破ってはならない。すべて自分の口から出たとおりのことを実行しなければならない。」(新改訳第三版)とあります。

 余談になりますが、民数記302の冒頭の「人」と訳された箇所を2017は、「男」と訳しています。ヘブライ語原語は「イーシュ」で第一義的には「男」、Strong辞書の最後の方に「人」の語も出て来ます。私が所有している他の日本語訳聖書はすべて「人」と訳していますが、民数記30章全体を読むと、「男」と訳したほうが良いと私も思います。

 申命記2321-23には、「あなたの神、主に誓願をするとき、それを遅れずに果たさなければならない。あなたの神、主は、必ずあなたにそれを求め、あなたの罪とされるからである。もし誓願をやめるなら、罪にはならない。あなたのくちびるから出たことを守り、あなたの口で約束して、自分から進んであなたの神、主に誓願したとおりに行わなければならない。」(新改訳第三版)とあります。

 新聖書註解は次のように述べています。
“この誓いについて、律法学者たちは詭弁的な逃げ道を考案した。すなわち、誓いを二種類に分け、神の名によるものは絶対に守るべきであるとし、神の名によらないものはその限りでないとした。そこで、「天」「地」「エルサレム」「頭」を指して回避的に誓うことによって、その誓いは破られてもよいとした。誓う時に神の名を使ったら神は関係してくるが、使わなかったら関係してこないというのがその考え方である。”と記しています。

 イエス様は、律法学者やパリサイ人たちに、
「わざわいだ。目の見えぬ手引きども。おまえたちは言う。
『だれでも、神殿をさして誓ったのなら、何でもない。しかし、神殿の黄金をさして誓ったら、その誓いを果たさなければならない。』
愚かで、目の見えぬ者たち。黄金と、黄金を聖いものにする神殿と、どちらがたいせつなのか。
また、言う。『だれでも、祭壇をさして誓ったのなら、何でもない。しかし、祭壇の上の供え物をさして誓ったら、その誓いを果たさなければならない。』
目の見えぬ者たち。供え物と、その供え物を聖いものにする祭壇と、どちらがたいせつなのか。
だから、祭壇をさして誓う者は、祭壇をも、その上のすべての物をもさして誓っているのです。
また、神殿をさして誓う者は、神殿をも、その中に住まわれる方をもさして誓っているのです。
天をさして誓う者は、神の御座とそこに座しておられる方をさして誓うのです。」(マタイ2316-22・新改訳第三版)とも語られました。

 イエス様は34.35節で、「わたしはあなたがたに言う。いっさい誓ってはならない。天をさして誓うな。そこは神の御座であるから。また地をさして誓うな。そこは神の足台であるから。またエルサレムをさして誓うな。それは『大王の都』であるから。」(口語訳)と言われました。
 またマタイ2321.22には、「21 また、神殿にかけて誓う者は、神殿とそこに住まわれる方にかけて誓っているのだ。
22
天にかけて誓う者は、神の御座とそこに座しておられる方にかけて誓っているのだ。」(2017)というイエス様が語られた聖句が記されています。

 余談になりますが、
イエス様は、エルサレム神殿について「父の家」と語られたことがありました。
ルカ1249には、すると、イエスは両親に言われた。「どうしてわたしを捜されたのですか。わたしが自分の父の家にいるのは当然であることを、ご存じなかったのですか。」2017)と記されています。

 父なる神は天の御座におられ、御子キリスト・イエス様は御父の右の御座におられ(マルコ1619)、御聖霊が万物の中に偏在していると言われる方がいます。
果たしてそうなのでしょうか?
 イエス様は、「神は霊です」(ヨハネ424)とも語られました。
 イエス様には、御父が天の御座におられること、そして神殿にもおられることを教えてくれています。
 イエス様についても、復活されたキリスト・イエス様は霊のからだでした。
復活の主は、物質をもすり抜けたのです。
ヨハネ2019には、その日、すなわち週の初めの日の夕方、弟子たちがいたところでは、ユダヤ人を恐れて戸に鍵がかけられていたすると、イエスが来て彼らの真ん中に立ち、こう言われた。「平安があなたがたにあるように。」2017)と記されています。
コロサイ127には、・・・この奥義とは、あなたがたの中におられるキリスト・・・2017)と記されています。
霊なるお方を人間の体のように物質的に捉えると間違ってしまうのではないかと思います。
 ヨハネ14章には次のようなイエス様の御御言葉があります。
“10.11
わたしが父のうちにいて、父がわたしのうちにおられる・・・(2017/
23
・・だれでもわたしを愛する人は、わたしのことばを守ります。そうすれば、わたしの父はその人を愛し、わたしたちはその人のところに来て、その人とともに住みます。(2017/
16.17
わたしは父にお願いしよう。父は別の弁護者〔「助け主」(新改訳)〕を遣わして、永遠にあなたがたと一緒にいるようにしてくださる。この方は、真理の霊である。世は、この霊を見ようとも知ろうともしないので、受け入れることができない。しかし、あなたがたはこの霊を知っている。この霊があなたがたと共におり、これからも、あなたがたの内にいるからである。(新共同訳)/
26
助け主、すなわち、父がわたしの名によって〔直訳「名の中で」(筆者挿入)〕お遣わしになる聖霊は、あなたがたにすべてのことを教え、わたしがあなたがたに話したすべてのことを思い起こさせてくださいます。(2017と記されています。
 マタイ2819
新共同訳は、「・・・彼らに父と子と聖霊の名によって洗礼を授け」と訳し、
フランシスコ会訳は、「それ故、あなた方は行って、すべての国の人々を弟子にしなさい。父と子と聖霊の名に入れる洗礼を授け」と訳しています。
「よって」(新共同訳)と訳されている語のギリシア語原語は「イース」で、英語ではinto という語がつかわれていますから、「父と子と聖霊の中へと浸す」の意があるのではないかと思います。  
フランシスコ会訳は、「父と子と聖霊の名に入れる洗礼を授け」と訳しています。

 よく考えると、よく考えなくても、三一の神様は相互内住、かつ偏在のお方、どこにでもおられ、すべてのことを聞いておられるお方です。その事実を思いうかべると、ぞっとする人もいれば、安心する人もいることでしょう。

 36節には、「自分の頭をさして誓うな。あなたは髪の毛一すじさえ、白くも黒くもすることができない。」とあります。
脱色剤や毛染めを使えばできると言われても困ります。そのようなことを言っているのではありませんから。
人間のできることは限られています。それどころか、明日は死んでいるかもしれないのです。

 誓いに関する締めくくりで、イエス様は、「あなたがたの言葉は、ただ、しかり、しかり、否、否、であるべきだ。それ以上に出ることは、悪から来るのである。」(口語訳)と語られたと37節に記されています。
口語訳で「それ以上に出ることは、悪から来るのである。」と訳しているところを、新改訳は「それ以上のことは悪いことです。」と訳し、新共同訳は「それ以上のことは、悪い者から出るのである。」と訳しています。
イエス様は、「悪から来る」(37)の「悪」を人の内に住み着いている罪、あるいは悪しき霊、と分けて一方だけに限定してしまうよりも、両方を含んだものとして言われたのではないだろうかと想像します。

 ヤコブは、「私の兄弟たちよ。何よりもまず、誓わないようにしなさい。天をさしても地をさしても、そのほかの何をさしてもです。ただ、「はい」を「はい」、「いいえ」を「いいえ」としなさい。それは、あなたがたが、さばきに会わないためです。」(ヤコブ512・新改訳第三版)と述べて、ヤコブは裁きにまで言及しました。

 イエス様は他の箇所で、「言っておくが、人は自分の話したつまらない言葉についてもすべて、裁きの日には責任を問われる。」(マタイ1236・新共同訳)と語っておられます。

 マタイ533-37は神様に対する誓いについて取り上げられた箇所ですが、マタイ1236のおことばを読むときゾ~とします。しかしイエス様は、私が話したつまらない言葉、裁かれるべき言葉のすべての罪をも身代わりに負って十字架についてくださり、罰を受けて解決してくださいました。
罪をしめされたら、御父に告白すれば、赦してもらえるだけではなく、きよめて頂けます(1ヨハネ19)から感謝です。それというのもイエス様が十字架上で御血を流してくださったからです。
思いの罪、言葉の罪、行動の罪、・・・一体私はどれだけ罪を犯したのでしょう。まったくわからないほどの数ですが、いずれにしてもすべての罪をイエス様は身代わりに負ってくださったのです。いくら感謝しても足りません。長く生きるほど犯した罪も増えます。

 <お祈り>
天のお父様。
あなたの御名を崇めます。
自分では数え切れないほどの罪を犯してきましたがこれからもまだ地上にいればその罪の数も増すことでしょう。
しかし、そのすべての罪をイエス様が身代わりに負って十字架の上で死んでくださいましたことを感謝し、主イエス・キリスト様の御名でお祈りします。アーメン。
・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・
<いかにけがれたる>聖歌701、聖歌総合版586
1.如何に汚れたる者の心をも きよめたもう主は げに ほむべきかな
  罪汚れは いや増すとも 主の恵みも また いや増すなり
2.君に逆らいし時こそ多けれ 従いまつりし日は そもいくばく
  罪汚れは いや増すとも 主の恵みも また いや増すなり
3.汚れのみ多く いさおは無けれど 君は血潮もて 洗わせ賜えり
  罪汚れは いや増すとも 主の恵みも また いや増すなり
4.かくも満ちたれる恵みの数々 力限りなおたたえ歌わばや
  罪汚れは いや増すとも 主の恵みも また いや増すなり

2022年2月18日 (金)

悟りとは主を知ること

 箴言97-12には次のように記されています。
“7
嘲(あざけ)る者を戒める者は、自分が恥辱を受け、
悪しき者を叱る者は、自分が傷を受ける。
8
嘲る者を叱るな。彼があなたを憎まないために。
知恵のある者を叱れ。彼はあなたを愛する。
9
知恵のある者に与えよ。
彼はますます知恵ある者となる。
正しい人を教えよ。
彼は洞察を深める。
10
主〔ヤハウェ(筆者挿入)〕を恐れる〔畏れる(新共同訳、聖書協会共同訳)〕ことは知恵の初め、
聖なる方を知ることは悟ることである。
11
わたしによって、あなたの日は多くなり、
あなたのいのちの年が加えられるからだ。
12
あなたが知恵を得るなら、
自分のために知恵を得ることになり、
嘲るなら、自分だけが責めを負うことになる。2017)とあります。

 7節を2017は、嘲(あざけ)る者を戒める者は、自分が恥辱を受け、
悪しき者を叱る者は、自分が傷を受ける。と訳しています。
新共同訳は、神に対して嘲る者、という観点から訳したのであろうと思いますが、次のように訳しています。
不遜な者を諭しても侮られるだけだ。神に逆らう者を戒めても自分が傷を負うだけだ。と訳しています。

 イエス様は、この様な場面に出くわした時のことを次のように教えてくれています。
「聖なるものを犬に与えてはいけません。また、真珠を豚の前に投げてはいけません。犬や豚はそれらを足で踏みつけ、向き直って、あなたがたをかみ裂くことになります。」(マタイ762017)とあります。

 イエス様は、イエス様の教え、聖書の教えを聞こうとせず、或いは理解しようとしないばかりか、敵対してくる人には無理をしなくてよいのですよ、ということを教えてくださっておられるように思います。
別の箇所でイエス様は、「私の羊は私の声を聴き分けます。」とも語っておられます。

 天に帰られたある姉妹は、この様な機微の上手な人でした。
その人は、知り合いの人に、イエス様のことを語るのですが、その人が、話に乗って来なければ、すぐに別の話題に話を切り替えるのです。そして人間関係をダメにしてしまうことなく、またチャンスをうかがうのです。
この姉妹の葬儀の時には、その拒絶していた人はその人を失って悲しんで泣いていました。
その人が、その後救われたかどうかは知りません。

 イエス様はまた、「だれかがあなたがたを受け入れず、あなたがたのことばに耳を傾けないなら、その家や町を出て行くときに足のちりを払い落としなさい。」(マタイ10142017)、とも語られました。

 足の塵を払い落とす、ということは、関係を断つ、ということの表象です。
足の塵を払い落とす、ということを当時の敬虔なユダヤ人が行っていたようです。どのような時に行ったのか、そして、イエス様がここで言わんとしていることは何なのかについてBIBLE navi は次のように述べています。
なぜイエスは弟子たちに、町や家が彼らを受け入れないなら、足のちりを払い落としなさいと言ったのか。
敬虔なユダヤ人は、異邦人の町を去るとき、異邦人と彼らの習慣から自分を切り離すことを示すために、しばしば、足からちりを払い落とした。
弟子たちが足からユダヤ人の町のちりを払い落とすならば、それはメシアを拒絶したユダヤ人たちから自分たちを切り離すことを示した。とあります。
そして更に、この身振りは、あなたたちは誤った選択をしている、キリストを選ぶ機会は二度と到来しないかも知れないということを、人々に示すことになる。と述べています。

 8.9節には、8 嘲る者を叱るな。彼があなたを憎まないために。
知恵のある者を叱れ。彼はあなたを愛する。
9
知恵のある者に与えよ。
彼はますます知恵ある者となる。
正しい人を教えよ。
彼は洞察を深める。”と記されていますが、この箇所は読むだけでわかる箇所ですね。

 新共同訳は、対神的なこととしての観点から次のように訳しています。
“8
不遜な者を叱るな、彼はあなたを憎むであろう。
知恵ある人を叱れ、彼はあなたを愛するであろう。
9
知恵ある人に与えれば、彼は知恵を増す。
神に従う人に知恵を与えれば、彼は説得力を増す。
 まさにその通りのことを体験している人も多いのではないかと思います。

 「知恵」について、この世の知恵と神の知恵があるということを1コリント2章は教えてくれています。1コリント21-8には次のように記されています。
“1
兄弟たち。私があなたがたのところに行ったとき、私は、すぐれたことばや知恵を用いて神の奥義を宣べ伝えることはしませんでした。
〔愛する皆さん。私が初めて皆さんのところへ行った時、神のことばを伝えるのに、難しいことば遣いをしたり、高度な理論をふりまわしたりはしませんでした。(リビングバイブル意訳)〕
2
なぜなら私は、あなたがたの間で、イエス・キリスト、しかも十字架につけられたキリストのほかには、何も知るまいと決心していたからです。
3
あなたがたのところに行ったときの私は、弱く、恐れおののいていました。
4
そして、私のことばと私の宣教は、説得力のある知恵のことばによるものではなく、御霊と御力の現れによるものでした。
5
それは、あなたがたの信仰が、人間の知恵によらず、神の力によるものとなるためだったのです。
6
しかし私たちは、成熟した人たちの間では知恵を語ります。この知恵は、この世の知恵でも、この世の過ぎ去って行く支配者たちの知恵でもありません。
7
私たちは、奥義のうちにある、隠された神の知恵を語るのであって、その知恵は、神が私たちの栄光のために、世界の始まる前から定めておられたものです。
8
この知恵を、この世の支配者たちは、だれ一人知りませんでした。もし知っていたら、栄光の主を十字架につけはしなかったでしょう。2017)とあります。

 この世の知恵では、福音を理解することができないのです。
福音の理解は聖霊によるのです。
1
コリント123には、“聖霊によらなければ、だれも「イエスは主である」とは言えないのです。”(新共同訳)と記され、
1
コリント212には、わたしたちは、世の霊ではなく、神からの霊を受けました。それでわたしたちは、神から恵みとして与えられたものを知るようになったのです。(新共同訳)と記されています。

 人から教えてもらってわかるようになった、と思える時も、聖霊様が働いてくださっておられたからなのです。
聖霊は、三一の神の中の第三位格の神ですから、意志を持っています。
聖霊はご自身の意志に基づいて行動しているのです。その行動は第一位格の神であり万物の根源であられる御父の御旨に従っているのだろうと思います。
ヨハネ38には、「風は思いのままに吹きます。」(2017)というイエス様の御言葉があります。
「風」と訳された語のギリシア語原語は「プニューマ」で、風の他、霊、の意もあります。
「霊は思いにしたがってあちらこちらへと行くのです。」
原文では「霊」には定冠詞、英語で言えば、theがついています。

 10節には、“主〔ヤハウェ(筆者挿入)〕を恐れる〔畏れる(新共同訳、聖書協会共同訳)〕ことは知恵の初め、
聖なる方を知ることは悟ることである〔直訳的には「聖なる方を知ることが分別」{聖書協会共同訳}(筆者挿入)〕。”(2017)とあります。

 新約的に言えば、イエス様を畏れ敬い、イエス様の御父を畏れ敬うところから、神の知恵を知る第一歩が始まります、ということでしょう。
10
節の「聖なる方」は複数形です。新約の民は、神が三一の神であることを知っています。

 10b-12節には、
聖なる方を知ることは悟ることである。
11
わたしによって、あなたの日は多くなり、
あなたのいのちの年が加えられるからだ。
12
あなたが知恵を得るなら、
自分のために知恵を得ることになり、
嘲るなら、自分だけが責めを負うことになる。2017)とあります。

 10節の「知る」と訳されているヘブライ語原語「ダーアト」は、創世記41の「知る」と訳されている語のヘブライ語原語「ヤーダー」とは異なるのですが、箴言910の方も「聖なる方と交わり知ることは悟ることである」と解釈してみたいと思います。
イエス様を心に受け入れ、新生させていただけた人は、「いのちの年が加えられる」(11)という以上の恵みを頂き、永遠のいのちを頂くのです。
12
節の冒頭の「知恵」を擬人化された知恵として、そこに「キリスト・イエス」をあてはめるならば、「あなたがキリストを得るなら、自分のために知恵を得ることになり、嘲るなら、自分だけが責めを負うことになる。」と解釈することができます。
1
コリント130には、キリストは、私たちにとって神からの知恵、すなわち、義と聖と贖いになられました。(抜粋・2017)と記され、
コロサイ23には、“このキリストのうちに、知恵と知識の宝がすべて隠されています。”(2017)と記されています。

 
「悟りとは主を知ること」、という題を書きましたが、主イエス様が、「わたしは真理です。」と語られたのです(ヨハネ146)。
デジタル大辞泉には、悟りについて、 仏語。迷妄を払い去って生死を超えた永遠の真理を会得すること。「の境地に達する」と記されています。
キリスト者に与えられた恵みの偉大さに感服します。

<お祈り>
天のお父様。
あなたの御名を賛美します。
万物の創造者がおられること、救いはイエス・キリストによること、を教えてくださいましたことを重ね重ね感謝申し上げます。
善き事のすべてを与えてくださるあなたに、私たちの主キリスト・イエス様の御名で感謝します。アーメン。

2022年2月17日 (木)

日々主の御前にいる人はとこしえに主の御前にいる

 詩篇16篇には次のように記されています。
ダビデのミクタム。
1
神よ 私をお守りください。私はあなたに身を避けています。
2
私は主〔ヤハウェ(筆者挿入)〕に申し上げます。
「あなたこそ 私の主。私の幸いは あなたのほかにはありません。」
3
地にある聖徒たちには威厳があり
私の喜びはすべて 彼らの中にあります。
4
ほかの神に走った者の痛みは 増し加わります。
私は 彼らが献げる血の酒を注がず
その名を口にいたしません。
5
主〔ヤハウェ(筆者挿入)〕は私への割り当て分 また杯。
あなたは 私の受ける分を堅く保たれます。
6
割り当ての地は定まりました。私の好む所に。
実にすばらしい 私へのゆずりの地です。
7
私はほめたたえます。助言を下さる主〔ヤハウェ(筆者挿入)〕を。
実に 夜ごとに内なる思いが私を教えます。
8
私はいつも 主〔ヤハウェ(筆者挿入)〕を前にしています。
主が私の右におられるので
私は揺るがされることがありません。
9
それゆえ 私の心は喜び
私の胸は喜びにあふれます。
私の身も安らかに住まいます。
10
あなたは 私のたましいをよみに捨て置かず
あなたにある敬虔な者に
滅びをお見せにならないからです。
11
あなたは私に いのちの道を知らせてくださいます。
満ち足りた喜びが あなたの御前にあり
楽しみが あなたの右にとこしえにあります。2017)とあります。

 表題の「ミクタム」について、聖書辞典は、ミクタム (〈ヘ〉miktam) 詩16,5660篇の題目に出てくることば。意味は必ずしも明確でないが、アッカド語の「覆う」ということばに由来することから、「罪を覆う」こと、「贖う」ことと解する者もいる。と述べています。

 第一に、この詩篇の重要性は、キリストについての預言が含まれているということでしょう。
ペテロは、ペンテコステ(五旬節)の日のメッセージの中で、次のように語っています。
22 イスラエルの皆さん、これらのことばを聞いてください。神はナザレ人イエスによって、あなたがたの間で力あるわざと不思議としるしを行い、それによって、あなたがたにこの方を証しされました。それは、あなたがた自身がご承知のことです。
23
神が定めた計画と神の予知によって引き渡されたこのイエスを、あなたがたは律法を持たない人々の手によって十字架につけて殺したのです。
24
しかし神は、イエスを死の苦しみから解き放って、よみがえらせました。この方が死につながれていることなど、あり得なかったからです。
25
ダビデは、この方について次のように言っています。
『私はいつも、主を前にしています。主が私の右におられるので、私は揺るがされることはありません。
26
それゆえ、私の心は喜び、私の舌は喜びにあふれます。私の身も、望みの中に住まいます。
27
あなたは、私のたましいをよみに捨て置かず、あなたにある敬虔な者に滅びをお見せにならないからです。
28
あなたは私に、いのちの道を知らせてくださいます。あなたの御前で、私を喜びで満たしてくださいます。』〔『 』部分は、詩篇168-11(筆者挿入)〕
29
兄弟たち。父祖ダビデについては、あなたがたに確信をもって言うことができます。彼は死んで葬られ、その墓は今日に至るまで私たちの間にあります。
30
彼は預言者でしたから、自分の子孫の一人を自分の王座に就かせると、神が誓われたことを知っていました。
31
それで、後のことを予見し、キリストの復活について、『彼はよみに捨て置かれず、そのからだは朽ちて滅びることがない』と語ったのです。
32
このイエスを、神はよみがえらせました。私たちはみな、そのことの証人です。
33
ですから、神の右に上げられたイエスが、約束された聖霊を御父から受けて、今あなたがたが目にし、耳にしている聖霊を注いでくださったのです。」(使徒2章・2017)と記されています。

 第二に、この詩篇の重要性は、私たちの地上の信仰生活からとこしえまで重要な聖句が含まれているからです。
 それは、8aの聖句です。
2017
は、「私はいつも主を前にしています。」と訳し、
第三版は、「私はいつも、私の前にを置いた。」と訳し、
新共同訳は、「わたしは絶えず主に相対しています。」と訳し、
リビングバイブルは、「私は、いつも主のことを思っています。」と訳し、
聖書協会共同訳は、「私は絶えず目の前に主を置く。」と訳し、
フランシスコ会訳は、「わたしは常に主を思い浮かべ る。」と訳しています。

 主を前に置いている状態は、主に祈りをささげているときや、主から御言葉を聞いているときや、それらのことをしていないときでも主のみ前を歩んでいるときです。

 主の空中再臨(携挙が行われる)前に、いつも主の御前にある人は、主の空中再臨時に、あっという間に、天の主の前に移動させていただけるのです。
ルカ2136には、「しかし、あなたがたは、必ず起こるこれらすべてのこと〔聖書に預言されている大患難(筆者挿入)〕から逃れて、人の子の前に立つことができるように、いつも目を覚まして祈っていなさい。」(2017)と記されています。

 また、いつも主の御前にある歩みをしている人は、8bの聖句にあるように、「主が私の右におられるので、私は揺るがされることがありません。」と証しすることができます。
キリスト者にとって、主は天におられ、右におられ、前におられ、内に住んでくださっておられるお方です。
御父は御子の霊を私たちの内に送ってくださいました。
ガラテヤ46には、あなたがたが子であることは、神が、「アッバ、父よ」と叫ぶ御子の霊を、わたしたちの心に送ってくださった事実から分かります。(新共同訳)と記されています。

 このキリストは、天においても地においても、すべての権威が与えられて”いるお方です。(マタイ2818参照)
サタン(悪魔)と雖も、十字架と復活の後、昇天、そして高挙されたキリストには、全く歯が立たないのです。それ故、キリスト者はキリストにあればサタン(悪魔)に必ず勝利できるのです。
キリスト者の戦いは、人に対してではなく、悪魔(サタン)悪霊に対するものですが、既に勝利は確約されているのです。(エペソ6121ペテロ58-9a、ヤコブ47

 マタイ2818を日本語訳諸聖書は次のように訳しています。
イエスは近づいて来て、彼らにこう言われた。「わたしには天においても地においても、すべての権威が与えられています。」2017
イエスは近づいて来て、彼らにこう言われた。「わたしには天においても、地においても、いっさいの権威が与えられています。(第三版)
イエスは彼らに近づいてきて言われた、「わたしは、天においても地においても、いっさいの権威を授けられた。(口語訳)
イエスは、近寄って来て言われた。「わたしは天と地の一切の権能を授かっている。(新共同訳、聖書協会共同訳)
イエスは弟子たちに近づき、次 のように仰せになった、「わたしには天においても地においても、すべての権能が与えられている。(フランシスコ会訳)
するとイエスが近寄って来て、彼らに語って言った、「私には天上と地上との、すべての権能が 与えられた。(岩波訳)
「いっさいの権能」とは、すべてのことに対する権威とそれを行う能力です。
それを持っておられるのが、私たちの主キリスト・イエス様です。

 余談になりますが、この箇所で、「権能」、「権威」と訳されている語のギリシア語原語は、「エクスーシア」で、権威、権能の他、(個人や階層が享受する)特権、特典、恩恵、名誉、栄誉等の意があります。
 ヨハネ1122017は、・・、この方を受け入れた人々、すなわち、その名を信じた人々には、神の子どもとなる特権〔「栄誉」とも訳せます(筆者挿入)〕をお与えになった。と訳していますが、「特権」と訳された語のギリシア語原語は「エクスーシア」です。

<お祈り>
天のお父様。
あなたの御名を賛美します。
いつも主と共に歩み続ける者であらせてください。
私たちの主キリスト・イエス様の御名で祈ります。アーメン。

2022年2月16日 (水)

ラケルと出会ったヤコブとヤコブの結婚

 ヤコブは兄エサウに殺されるのを避けるために、ベエル・シェバを出て、母リベカの実家を目指して旅立ちました(創世記2742-45)。
そして、100km位進んだルズでの睡眠中のこと、夢の中にヤハウェ(主)が現れてくださり、ヤハウェ(主)から、
13わたしは、あなたの父アブラハムの神、イサクの神、主〔ヤハウェ(筆者挿入)〕である。わたしは、あなたが横たわっているこの地を、あなたとあなたの子孫に与える。
14
あなたの子孫は地のちりのように多くなり、あなたは、西へ、東へ、北へ、南へと広がり、地のすべての部族はあなたによって、またあなたの子孫〔「子孫」と訳されたヘブライ語の原語は「ゼラ」で単数形。肉における「イエス・キリスト」。霊においては御子なる神{ヨハネ36口語訳、新共同訳参照}(筆者挿入)〕によって祝福される。
15
見よ。わたしはあなたとともにいて、あなたがどこへ行っても、あなたを守り、あなたをこの地に連れ帰る。わたしは、あなたに約束したことを成し遂げるまで、決してあなたを捨てない。」」(創世記2813-152017)という約束を頂きました。
ヤコブは、ルズを「ベテル」(「神の家」)と名づけました。

 ヤコブは、ベエル・シェバから約600km離れたハラン即ち、母リベカの兄ラバンとその家族が住んでいる所の近くまで来ました。そこでヤコブは、ラバンの娘ラケルと出会ったのでした。その経緯は創世記291-14に次のように記されています。
“1
ヤコブは旅を続けて、東の人々の国へ行った。
2
ふと彼が見ると、野に井戸があった。ちょうどその傍らに、三つの羊の群れが伏していた。その井戸から群れに水を飲ませることになっていたからである。その井戸の口の上にある石は大きかった。
3
群れがみなそこに集められたら、その石を井戸の口から転がして、羊に水を飲ませ、その石を再び井戸の口の元の場所に戻すことになっていた。
4
ヤコブがその人たちに
「兄弟たちよ、あなたがたはどこの方ですか」と尋ねると、
彼らは「私たちはハランの者です」と答えた。
5
それでヤコブが
「あなたがたはナホルの子ラバンをご存じですか」と尋ねると、
彼らは「よく知っています」と答えた。
6
ヤコブは彼らに尋ねた。
「その人は元気ですか。」
すると彼らは、「元気です。ほら、娘のラケルが羊を連れてやって来ます」と言った。
7
ヤコブは言った。
「ご覧なさい。日はまだ高いし、群れを集める時間でもありません。羊に水を飲ませて、草を食べさせに戻ってはどうですか。」
8
すると彼らは言った。
「そうはできません。群れがみな集められて、井戸の口から石を転がすまでは。それから、羊に水を飲ませるのです。」
9
ヤコブがまだ彼らと話しているとき、ラケルが父の羊の群れを連れてやって来た。彼女は羊を飼っていたのである。
10
ヤコブは、母の兄ラバンの娘ラケルと、母の兄ラバンの羊の群れを見ると、すぐ近寄って行って、井戸の口の上の石を転がし、母の兄ラバンの羊の群れに水を飲ませた。
11
そしてヤコブはラケルに口づけし、声をあげて泣いた。
12
ヤコブはラケルに、自分は彼女の父の甥であり、リベカの子であることを告げた。彼女は走って行って、父にそのことを告げた。
13
ラバンは妹の子ヤコブのことを聞くとすぐ、彼を迎えに走って行って、彼を抱きしめて口づけした。そして彼を自分の家に連れて帰った。
ヤコブはラバンに事の次第をすべて話した。
14
ラバンは彼に
「あなたは本当に私の骨肉だ」と言った。
ヤコブは彼のところに一か月滞在した。2017)とあります。

 ヤコブは、容姿端麗のラケルに一目ぼれしたようです。
創世記2917.18に、“17・・・、ラケルは姿も美しく、顔だちも美しかった。18 ヤコブはラケルを愛していた。2017)と記されています。

 ラバンは当時のその地方の常識に則った人であったようです。
ラバンはヤコブに、「あなたが私の親類だからといって、ただで私に仕えることもないだろう。どういう報酬が欲しいのか、言ってもらいたい。」(創世記29152017)と聞きました。

 ヤコブはラケルと結婚したかったのですが、結婚持参金かそれに相当する物品を持っていなかったのです。
当時のしきたりでは、夫となる人は妻をめとる際に結婚持参金かそれに相当する物品が必要であったのです。
そこでヤコブがラケルをめとるために申し出た条件は、ラバンのもとでの7年間の労働でした。
創世記2918には、「私はあなたの下の娘ラケルのために、七年間あなた〔ラバン(筆者挿入)〕にお仕えします」(2017)とヤコブが言った、と記されています。

 ヤコブにとってこの7年間は短いものでした。それはラケルをそれだけ愛していたからです(創世記2920)。

 さて、この地方には、結婚に関してのあるしきたりがありました。
それは、妹よりも姉を先に嫁がせる、というしきたりでした。
ラバンはそれをヤコブに教えることなく黙っていたのです。
ラバンは、ある意味ヤコブの労働力欲しさに、前述のしきたりを教えることなくヤコブをだましたのです。
そして婚宴の時が来、そしてその翌朝になって、ヤコブは騙された、と思ったのです。
ヤコブは、これまで兄エサウを二度騙しました(創世記2736)が、ここではラバンに二人の娘のことで騙されたのです。但し、ラバンは嘘を言っていませんでした。
ラバンは、ヤコブがあと7年働いたらラケルを嫁がせる、と約束しました。
 創世記2916-30には次のように記されています。
“16
ラバンには二人の娘がいた。姉の名はレア、妹の名はラケルであった。
17
レアは目が弱々しかったが〔レアは優しい目をしていたが(新共同訳、聖書協会共同訳、フランシスコ会訳)〕、
ラケルは姿も美しく、顔だちも美しかった。
18
ヤコブはラケルを愛していた。それで、
「私はあなたの下の娘ラケルのために、七年間あなたにお仕えします」と言った。
19
ラバンは、「娘〔ヘブライ語原語の直訳は「私の娘」、ラバンはラケルとは言っていない(筆者挿入)〕を他人にやるよりは、あなたにやるほうがよい。私のところにとどまっていなさい」と言った。
20
ヤコブはラケルのために七年間仕えた。ヤコブは彼女を愛していたので、それもほんの数日のように思われた。
21
ヤコブはラバンに言った。
「私の妻を下さい。約束の日々が満ちたのですから。彼女のところに入りたいのです。」
22
そこでラバンは、その土地の人たちをみな集めて祝宴を催した。
23
夕方になって、ラバンは娘のレアをヤコブのところに連れて行ったので、ヤコブは彼女のところに入った。
24
ラバンはまた、娘のレアに、自分の女奴隷ジルパを彼女の女奴隷として与えた。
25
朝になって、見ると、それはレアであった。それで彼はラバンに言った。
「あなたは私に何ということをしたのですか。私はラケルのために、あなたに仕えたのではありませんか。なぜ、私をだましたのですか。」
26
ラバンは答えた。
「われわれのところでは、上の娘より先に下の娘を嫁がせるようなことはしないのだ。
27
この婚礼の一週間を終えなさい。そうすれば、あの娘もあなたにあげよう。その代わり、あなたはもう七年間、私に仕えなければならない。」
28
そこで、ヤコブはそのようにした。すなわち、その婚礼の一週間を終えた。
それでラバンは、その娘ラケルを彼に妻として与えた。
29
ラバンは娘のラケルに、自分の女奴隷ビルハを彼女の女奴隷として与えた。
30
ヤコブはこうして、ラケルのところにも入った。
ヤコブは、レアよりもラケルを愛していた。それで、もう七年間ラバンに仕えた。2017)とあります。

 聖書には記されていませんが、おそらくヤコブは、人をだますと良いことはないのだな、ということを教えられたのではないかと思います。
人は、何か悪いことが起こると、自分に何か誤りがあったのか、無かったのか、と考えることが多いようです。
それは、それまでの多くの人々の経験からのものでしょう。
しかし、そこには神様の法則があるのです。
ガラテヤ67に、“思い違いをしてはいけません。神は、人から侮られることはありません。人は、自分の蒔いたものを、また刈り取ることになるのです。”(新共同訳)と記されています。

 この後、ヤコブには、上記の4人の女性から息子12人と娘(ディナ)or娘たち(1~?人)が与えられたのです。

<お祈り>
天のお父様。
あなたの御名を賛美します。
あなたの御旨に従って生きることが何よりも幸いであることを覚えます。
あなたの御旨に従って歩み続けることができますよう祝福してください。
私たちの主キリスト・イエス様の御名で祈ります。アーメン。

2022年2月15日 (火)

ガラテヤ信徒への手紙の概説

 29日の2A.M.過ぎにお祈りを始めました。
寝ているのか、祈っているのか、わからないような状態の中で。
祈っていると思っていたら、いつの間にか寝ていたのかも知れません。
頭の中で、ガラテヤ書が巡り始めました。
その時のことを書き留めておこうと思い、ここに記すことにしました。
ガラテヤ書の聖句を一つ一つ示されたわけではありませんが、関連聖句をも加えて記しておくことにします。その中にはガラテヤ書以外の聖句もあります。

 寝床の中で頭の中を巡っていたガラテヤ信徒への手紙の概要をまとめてみました。下記した以外にも大切な教えが含まれているのは申すまでもありませんが、そのときのことを記します。
1.救いは、イエス・キリストを信じる信仰のみによるということ。
 人は律法の実行ではなく、ただイエス・キリストへの信仰によって義とされると知って、わたしたちもキリスト・イエスを信じました。これは、律法の実行ではなく、キリストへの信仰によって義としていただくためでした。なぜなら、律法の実行によっては、だれ一人として義とされないからです。(ガラテヤ216・新共同訳)

 律法によって義とされるためには、律法のすべてを行う必要がある。
律法全体を注意深く守っていても、一点ででもつまずけば、その人はすべてを破った者となるのです。(ヤコブ210・リビングバイブル)

2.信仰によって生きる
義人は信仰によって生きる。(ガラテヤ3112017
正しい者は信仰によって生きる(ガラテヤ311・新共同訳)
イエス様を信じて、イエス様が語られた御言葉を信じて生きていく。
御父を信じて、御父が語られた御言葉を信じて生きていく。

3.聖い歩みの基礎は、古い人がキリストと共に十字架につけられたことによる。
キリスト・イエスのものとなった人々は、肉をその欲情と欲望とともに十字架につけてしまったのです。(ガラテヤ524・フランシスコ会訳)
キリスト・イエスのものとなった人たちは、肉を欲情や欲望もろとも十字架につけてしまったのです。(ガラテヤ524・新共同訳)
私たちの古い人がキリストとともに十字架につけられたのは、罪のからだが滅ぼされて、私たちがもはや罪の奴隷でなくなるためです。(ローマ662017
私たちの中にある古い性質の自分が、キリストと共に十字架につけられたのは、罪を愛する体が砕かれ、もはや罪の支配を受けず、二度と罪の奴隷にならないためです。(ローマ66・リビングバイブル)

4.キリストの霊(orキリストと一つとされた霊)による歩みor&聖霊による歩み
 私たちは霊によって生きているのですから、霊によってまた進もうではありませんか。{ガラテヤ525・聖書協会共同訳(直訳的です。)}
主〔ここの「主」はキリストのこと(筆者挿入)〕と交わる者は、主と一つの霊になる1コリント6172017
この奥義とは、あなたがたの中におられるキリスト(コロサイ1272017
あなたがたが子であるので、神は「アバ、父よ」と叫ぶ御子の御霊〔原語は定冠詞のついた「神の子の霊」(筆者挿入)〕を、私たちの心に遣わされました。(ガラテヤ462017
もしわたしたちが御霊によって生きるのなら、また御霊によって進もうではないか。(ガラテヤ525・口語訳)
もし私たちが聖霊の力を受けて生きているなら、すべてに渡って、その導きに従おうではありませんか。{ガラテヤ525・リビングバイブル(意訳。原語は「霊」であって「聖霊」ではありません。)}
 つまり、ナザレのイエスのことです。神は、聖霊と力によってこの方を油注がれた者となさいました。イエスは、方々を巡り歩いて人々を助け、悪魔に苦しめられている人たちをすべていやされたのですが、それは、神が御一緒だったからです。(使徒1038・新共同訳)
あなたがたの上に聖霊が降ると、あなたがたは力を受ける。{使徒18・新共同訳、聖書協会共同訳(原語を訳すと「聖霊」)}

5.ガラテヤ信徒への手紙の著者パウロの証し・・・キリストの信仰orキリストの真実orキリストを信じる信仰、によって生きる
ガラテヤ519b.20の日本語訳は、大きく二つに分けることができます。
 ⓐキリストの信仰orキリストの真実によって生きている新生した私
“私はキリストと共に十字架につけられました。生きているのは、もはや私〔メンタルの部分における生まれながらの私(筆者挿入)〕ではありません。キリストが私〔新生した私(筆者挿入)〕の内に生きておられるのです。私が今、肉〔原語は「サルクス」で、肉、体etc.(筆者挿入)〕において生きているのは、私を愛し、私のためにご自身を献げられた神の子の真実〔原語は「ピスティス」で、信仰、真実、信念、信用、信頼、確信、忠実、忠誠等の意があります(筆者挿入)〕によるのです。”{聖書協会共同訳(直訳的)} 
わたしはキリストとともに十字架につけられました。わたしはもはや生きているのでなく、わがうちにあるキリストが生きているのです。今わたしが肉にあって生きているのは、神の子のまこと〔「信仰」とも訳せます(筆者挿入)〕によって生きているのです。・・・。(前田訳)
 ⓑキリストを信じる信仰によって生きている私
私はキリストとともに十字架につけられました。もはや私が生きているのではなく、キリストが私のうちに生きておられるのです。今私が肉において生きているいのちは、私を愛し、私のためにご自分を与えてくださった、神の御子に対する信仰によるのです。2017
 ガラテヤ219-21をリビングバイブルは次のように意訳しています。
“19
というのは、いくら律法に従おうと努力しても――それは失敗以外にないのです――神の恵みは決して受けられないことがわかったからです。キリストを信じて初めて、神に受け入れられることがわかったのです。20 私はキリストと共に十字架につけられました。もはや、私自身が生きているのではありません。キリストが、私のうちに生きておられるのです。私のためにご自身をささげてくださった神の御子を信じた結果、今、私のうちにはほんとうのいのちが与えられています。21 私は、キリストの死を無にはしません。もし私たちが、律法を守ることによって救われるなら、キリストが死ぬ必要などなかったはずですから。

 パウロは、キリストのみを信じる信仰によって救われることと、聖い歩みをさせていただける原理について、またそのように歩んでいるという証について記しています。

<お祈り>
天のお父様。
あなたの御名を賛美します。
イエス様の御救いを感謝します。
あなたのみ旨に従って歩み続けることができますよう祝福してください。
私たちの主キリスト・イエス様の御名で祈ります。アーメン。

2022年2月14日 (月)

イエス様の招き

 箴言91-6には次のように記されています。
“1
知恵は自分の家を建て、石の柱を七本、切り出し、2 いけにえを屠り、ぶどう酒を混ぜ合わせ、その食卓も整え、3 侍女たちにことづけて、町の最も高い所で呼びかけさせた。
4
「浅はかな者はみな、ここに来なさい」と。
また、良識のない者に言った。
5
「さあ、わたしのパンを食べなさい。わたしが混ぜ合わせたぶどう酒を飲みなさい。6 浅はかさを捨てて、生きなさい。分別のある道を、まっすぐに歩みなさい」と。2017)とあります。

 この箇所は、擬人化された知恵をイエス様に重ね合わせると私にはよく分かりますので、その観点から述べたいと思います。

 1節には、“知恵は自分の家を建て、石の柱を七本、切り出し、”とあります。
「七」のヘブライ語原語は「シェバ」です。
ヘブライ語は、子音字から成り立ち、それに母音記号をつけて読みますが、母音記号は自国の人にとって自明の理のようで、ついていない場合も多々あります。
「七」は完全数と言われますが、同じ子音字から成る単語で、母音記号の異なる「シャーバ」というのがあり、これには、完全であること、etc.の意があります。

 1節は、何となくですが、イエス様が、ご自身隅の頭石になり、12使徒を選んで立て、霊的な教会を建設していったことを思い浮かべます。
ペテロは次のように記しています。
“4
主のもとに来なさい。主は、人には捨てられたが神には選ばれた、尊い生ける石です。5 あなたがた自身も生ける石として霊の家に築き上げられ、神に喜ばれる霊のいけにえをイエス・キリストを通して献げる、聖なる祭司となります。1ペテロ2章・2017)と。

 2節には“いけにえを屠り”とありますが、イエス様は、ご自身をご自身自ら十字架につけるべく進んで行き、十字架につかれたのです。
イエス様を十字架につけたのはローマ兵であり、イエス様を「十字架につけろ」と叫んだのは祭司長をはじめとする多くのユダヤ人たちでした。
しかし、イエス様は、十字架を回避しようと思えば回避できたのです。
 マタイ26章に次のような記事が記されています。
“47
イエスがまだ話しておられるうちに、見よ、十二人の一人のユダがやって来た。祭司長たちや民の長老たちから差し向けられ、剣や棒を手にした大勢の群衆も一緒であった。48 イエスを裏切ろうとしていた者〔ユダ(筆者挿入)〕は彼らと合図を決め、
「私が口づけをするのが、その人だ。その人を捕まえるのだ」と言っておいた。
49
それで彼はすぐにイエスに近づき、
「先生、こんばんは」と言って口づけした。
50
イエスは彼に
「友よ、あなたがしようとしていることをしなさい」と言われた。
そのとき人々は近寄り、イエスに手をかけて捕らえた。
51
すると、イエスと一緒にいた者たちの一人〔ペテロ{ヨハネ1810}(筆者挿入)〕が、見よ、手を伸ばして剣を抜き、大祭司のしもべ〔マルコス{ヨハネ1810}(筆者挿入)〕に切りかかり、その耳を切り落とした。
52
そのとき、イエスは彼に言われた。
「剣をもとに収めなさい。剣を取る者はみな剣で滅びます。53 それとも、わたしが父にお願いして、十二軍団よりも多くの御使いを、今すぐわたしの配下に置いていただくことが、できないと思うのですか。54 しかし、それでは、こうならなければならないと書いてある聖書が、どのようにして成就するのでしょう。」2017)とあります。

 イエス様は、捕えられることから逃れるために、十二軍団よりも多くの御使いを遣わしてもらうこともできたのです。
しかし、イエス様は、私たち罪びとを救うために、ご自身が身代わりのいけにえとなり、十字架につけられたのです。
もし、イエス様が十字架につかれることを拒否してしまわれたら、救われる人は誰もいなかったのです。

 5節には、「さあ、わたしのパンを食べなさい。わたしが混ぜ合わせたぶどう酒を飲みなさい。とあります。
 イエス様が、ご自身こそ、まことのパン、まことのぶどう酒であると語られた記事があります。ヨハネ6章には次のように記されています。
“53
イエスは彼らに言われた。
「まことに、まことに、あなたがたに言います。人の子の肉を食べ〔イエス・キリストを心に受け入れることの予表です(筆者挿入)〕、その血〔ぶどう酒はイエス・キリストの血の予表です。イエス・キリストの血は罪を赦しきよめます。(筆者挿入)〕を飲まなければ、あなたがたのうちに、いのちはありません。
54
わたしの肉を食べ、わたしの血を飲む者は、永遠のいのちを持っています。
わたしは終わりの日にその人をよみがえらせます。
55
わたしの肉はまことの食べ物、わたしの血はまことの飲み物なのです。
56
わたしの肉を食べ、わたしの血を飲む者は、わたしのうちにとどまり、わたしもその人のうちにとどまります〔キリストとキリスト信者の相互内住(筆者挿入)〕。
57
生ける父がわたしを遣わし、わたしが父によって生きているように、わたしを食べる者〔キリストを心に受け入れる者(筆者挿入)〕も、わたしによって生きるのです。
58
これは〔キリストは(筆者挿入)〕天から下って来たパンです。先祖が食べて、なお死んだようなものではありません。このパンを食べる者は〔キリストを心に受け入れる者は(筆者挿入)〕永遠に生きます。」2017)とあります。

 箴言91-5の準備と呼びかけは、イエス様の次のたとえ話に似ています。
福音書記者ルカは、次のようにルカ14章に記しています。
“15
イエスとともに食卓に着いていた客の一人はこれを聞いて、イエスに言った。
「神の国で食事をする人は、なんと幸いなことでしょう。」
16
するとイエスは彼にこう言われた。
「ある人が盛大な宴会を催し、大勢の人を招いた。17 宴会の時刻になったのでしもべを遣わし、招いていた人たちに、『さあ、おいでください。もう用意ができましたから』と言った。
18
ところが、みな同じように断り始めた。最初の人はこう言った。『畑を買ったので、見に行かなければなりません。どうか、ご容赦ください。』
19
別の人はこう言った。『五くびきの牛を買ったので、それを試しに行くところです。どうか、ご容赦ください。』
20
また、別の人はこう言った。『結婚したので、行くことができません。』〔18-20節に記されているような、福音を聞いてもこの世のことだけに価値を置いている人たちは福音の招きに応じないのです。(筆者挿入)〕
21
しもべは帰って来て、このことを主人に報告した。
すると、家の主人は怒って、そのしもべに言った。
『急いで町の大通りや路地に出て行って、貧しい人たち、からだの不自由な人たち、目の見えない人たち、足の不自由な人たちをここに連れて来なさい。』
22
しもべは言った。
『ご主人様、お命じになったとおりにいたしました。でも、まだ席があります。』
23
すると主人はしもべに言った。
『街道や垣根のところに出て行き、無理にでも人々を連れて来て、私の家をいっぱいにしなさい。24 言っておくが、あの招待されていた人たちの中で、私の食事を味わう者は一人もいません。』」2017)とあります。

 箴言95.6には、
“5
「さあ、わたしのパンを食べなさい。わたしが混ぜ合わせたぶどう酒を飲みなさい。6 浅はかさを捨てて、生きなさい。分別のある道を、まっすぐに歩みなさい」と。と記されていますが、この箇所を読むと、1ペテロ2章の次の箇所を思い起こします。
“21
・・・。キリストも、あなたがたのために苦しみを受け、その足跡に従うようにと、あなたがたに模範を残された。
22
キリストは罪を犯したことがなく、その口には欺きもなかった。
23
ののしられても、ののしり返さず、苦しめられても、脅すことをせず、正しくさばかれる方にお任せになった。
24
キリストは自ら十字架の上で、私たちの罪をその身に負われた。それは、私たちが罪を離れ、義のために生きるため。その打ち傷のゆえに、あなたがたは癒やされた。
25
あなたがたは羊のようにさまよっていた。しかし今や、自分のたましいの牧者であり監督者である方のもとに帰った。2017)とあります。

<お祈り>
天のお父様。
あなたの御名を賛美します。
「貧しい人たち、からだの不自由な人たち、目の見えない人たち、足の不自由な人たちをここに連れて来なさい。」とありますが、霊的なことが見えず、御旨に従って歩む歩みをすることの出来ない者をあなたのもとに招いて下さり、「イエスを信じればよいのだよ」と語ってくださり、更に導き、恵みの上に恵みを与え続けてきてくださいましたことを感謝します。
あなたの御名をほめたたえ、私たちの主キリスト・イエス様の御名で祈ります。アーメン。

2022年2月13日 (日)

揺るがされない人

 詩篇15篇は次のように記されています。
“1
主〔ヤハウェ(筆者挿入)〕よ、だれが、あなたの幕屋に宿るのでしょうか。
だれが、あなたの聖なる山に住むのでしょうか。
2
全き者として歩み、義を行い、心の中の真実を語る人〔心からまことを語る人(フランシスコ会訳)〕。
3
舌をもって中傷せず、友人に悪を行わず、隣人へのそしりを口にしない人。
4
その目は、主に捨てられた者を蔑み、主〔ヤハウェ(筆者挿入)〕を恐れる者〔畏れる者(聖書協会共同訳)〕を、彼は尊ぶ。
損になっても誓ったことは変えない。
〔主の目にかなわないものは退け、主を畏れる人を尊び、悪事をしないとの誓いを守る人。(新共同訳)〕
5
利息をつけて金を貸すことはせず、潔白な人を不利にする賄賂を受け取らない。
このように行う人は、決して揺るがされない。2017)とあります。

 注解付新改訳聖書の注は、この詩篇に、神の幕屋に宿る者、という題をつけています。
そして、1節の「ヤハウェ(主)よ、だれが、あなたの幕屋に宿るのでしょうか。だれが、あなたの聖なる山に住むのでしょうか。」という問いかけを、巡礼者の問いかけ、神殿への参拝を希望する礼拝者たちの問いかけとしています。
2-5
節は、その問いかけに対する神からの答え、と解釈しています。

 私もその通りだと思いますが、新約的に述べていきたいと思います。
この箇所に関しては、以前私のブログに記した内容をも活用し、その中からいくつかを転記したものも含まれています。

 神様は、幕屋をモーセに作るように命じられました。
幕屋に関する規定は出エジプト記25-31章に記されています。
幕屋は、至聖所、聖所、庭に区分されていました。庭には祭壇と洗盤がおかれ、聖所には机、燭台、香の壇がおかれていました。聖所と至聖所の間には、仕切りの垂れ幕があり、至聖所の中に契約の箱が置かれていたのです。至聖所には人工的な光はなく、神様の臨在の光がありました。至聖所は大祭司が1年に1度だけ入ることが許された場所です。
幕屋は後に、神殿(神の宮)になりました。
新約時代の神殿は、教会〔キリスト者の総体〕であり、一人一人のキリスト者です。

 新共同訳の訳文を基に、神である主の幕屋に宿り、聖なる山に住むことができる人の条件が2-5節に記されています。
それを箇条書きにすると
①完全な道を歩む人
②正しいことを行う人
③心に真実な言葉のある人
④人を中傷することの無い人
⑤友に災いをもたらさない人
⑥親しい人を嘲らない人
⑦主の目にかなわないものを退ける人
⑧主を畏れる人を尊ぶこと
⑨悪事をしないとの誓いを守る人
⑩金を貸しても利息を取らない人
⑪わいろを受けて無実の人を陥れたりしない人
となります。

 上記の~⑪のすべてを守ることの出来る人などいるのでしょうか?
私などは完全にアウトです。
の「完全な道を歩む人」という文言でもうアウトです。
「完全な道」というのを、聖書をもとに考えると、
ⓐ主に完全に信頼すること、主を完璧に信じること、主の御言葉を疑うことなく信じること(創世記171)、
ⓑ愛において御父のように完全であること(マタイ543-48)、
を指し示していると思います。

 聖書は、「キリストは罪を犯したことがない」(1ペテロ222)と述べると共に、私たちすべての人を指して、「義人はいない。一人もいない。」(ローマ3102017)と述べています。

 わたしはその様な罪人でありましたが、イエス様は憐れんで、イエス様を信じさせて下さることによって、救いにあずからせていただいた者です。
そして、父なる神様は、イエス・キリスト様を信じた人を、1コリント130に「・・・あなたがたは、神によってキリスト・イエスのうちにあるのです。キリストは、私たちにとって、神の知恵となり、また、義と聖めと、贖いとになられました。」(新改訳第三版)とあるように、キリストの内においてくださったのです。
また、ガラテヤ46に、「あなたがたが子であることは、神が、「アッバ、父よ」と叫ぶ御子の霊を、わたしたちの心に送ってくださった事実から分かります。」(新共同訳)とあるように、キリスト者の内には、御子の霊が住んでくださっておられるのです。
これは、イエス・キリスト様の血潮によって私たちの罪が赦され、聖別された故です。
すべては恵みです。報酬ではありません。
今では、親しく主と交わりながら歩むことができるのです。
そして、上記➀~⑪のように整えてくださるのは神様です。

 私たちが完全にそのようにされるのはいつなのでしょうか?
1
テサロニケ5章には次のように記されています。
“23
どうか、平和の神御自身が、あなたがたを全く聖なる者としてくださいますように。また、あなたがたの霊も魂も体も何一つ欠けたところのないものとして守り、わたしたちの主イエス・キリストの来られるとき〔キリストの空中再臨時(筆者挿入)〕、非のうちどころのないものとしてくださいますように。24 あなたがたをお招きになった方は、真実で、必ずそのとおりにしてくださいます。(新共同訳)とあります。

 キリストの空中再臨時に、体は肉の体から霊の体に一瞬のうちに変えていただけます。霊の体は、永遠の体ですから何があっても滅びません。霊の体には力があります。霊の体は栄光を伴っています。(以上の参照箇所は、1コリント1542,43
神は全能の神であり、ご自身が臨んでおられることを成し遂げられるお方です。
イザヤ4610には、「わたしは初めから既に、先のことを告げ、まだ成らないことを、既に昔から約束しておいた。わたしの計画は必ず成り、わたしは望むことをすべて実行する。」(新共同訳)とヤハウェ(主)の御言葉が記されています。

<お祈り>
天のお父様。
あなたの御名を崇め、感謝します。
私は、自分の行いによっては、あなたの御臨在の場に存在することは出来ない者でありましたが、恵みによって、御子の霊が私の内に住んでくださいましたからありがとうございます。
日々、あなたの御旨に従って歩み続けることができますよう助け導いてください。
主キリスト・イエス様の御名でお祈りします。アーメン。

2022年2月12日 (土)

睡眠中のヤコブに現れたヤハウェ(主)とその約束

 ヤコブは母リベカの策略に乗って父イサクと兄エサウをだましました。
騙された父イサクは、ヤコブの兄エサウに、「おまえの弟が来て、だましたのだ。そしておまえの祝福を奪い取ってしまったのだ。」(創世記27352017)と語りました。

 状況を知ったエサウは怒って、「あいつの名がヤコブというのも、このためか。二度までも私を押しのけて。私の長子の権利を奪い取り、今また、私への祝福を奪い取った。」(創世記27362017)と言ったのです。

 そしてエサウは、父がヤコブを祝福した祝福のことで、ヤコブを恨みました。それでエサウは心の中で、「父の喪の日も近づいている。そのとき、弟ヤコブを殺してやろう。」(創世記27412017)と言ったのです。

 エサウは、心の中で「弟ヤコブを殺してやろう。」言っただけでは収まりませんでした。心で思ったことが、口から出てきてしまったのです。
それを聞いた人が、エサウとヤコブの母リベカに伝えました。

 リベカは、それに対する対策を考え、早速実行に移しました。
それは、ヤコブを自分の兄のもとへ逃亡させること。
もう一つは、ヤコブの嫁をエサウのようにカナンの娘から迎えたくないと、イサクに言い、イサクが、ヤコブに、妻をめとるためにリベカの実家に行くように、と命じさせるように仕向けたのです。
 創世記2742-285には次のように記されています。
“27:42
上の息子エサウの言ったことがリベカに伝えられると、
彼女は人を送り、下の息子ヤコブを呼び寄せて言った。
「兄さんのエサウが、あなたを殺して鬱憤を晴らそうとしています。43 さあ今、子よ、私の言うことをよく聞きなさい。すぐに立って、ハランへ、私の兄ラバンのところへ逃げなさい。44 兄さんの憤りが収まるまで、おじラバンのところにしばらくとどまっていなさい。45 兄さんの怒りが収まって、あなたが兄さんにしたことを兄さんが忘れたとき、私は人を送って、あなたをそこから呼び戻しましょう。あなたたち二人を一日のうちに失うことなど、どうして私にできるでしょう。」
 46 リベカはイサクに言った。
「私はヒッタイト人の娘たちのことで、生きているのがいやになりました。もしヤコブが、この地の娘たちのうちで、このようなヒッタイト人の娘たちのうちから妻を迎えるとしたら、私は何のために生きることになるのでしょう。」
 28:1 イサクはヤコブを呼び寄せ、彼を祝福し、そして彼に命じた。
「カナンの娘たちの中から妻を迎えてはならない。2 さあ立って、パダン・アラムの、おまえの母の父ベトエルの家に行き、そこで母の兄ラバンの娘たちの中から妻を迎えなさい。3 全能の神がおまえを祝福し、多くの子を与え、おまえを増やしてくださるように。そして、おまえが多くの民の群れとなるように。4 神はアブラハムの祝福をおまえに、すなわち、おまえと、おまえとともにいるおまえの子孫に与え、神がアブラハムに下さった地、おまえが今寄留しているこの地を継がせてくださるように。」
5
こうしてイサクはヤコブを送り出した。彼はパダン・アラムの、ラバンのところに行った。ヤコブとエサウの母リベカの兄、アラム人ベトエルの子ラバンのところである。2017)と記されています。

 かくしてヤコブはベエル・シェバからパダン・アラムまで640㎞以上の旅をする羽目になりました。

 ヤコブはベエル・シェバから約100km歩いた場所まで来ました。ヤコブは、この場所をベテルと名づけました。
 その経緯は創世記2810-22に次のように記されています。
“10
ヤコブはベエル・シェバを出て、ハランへと向かった。11 彼はある場所にたどり着き、そこで一夜を明かすことにした。ちょうど日が沈んだからである。彼はその場所で石を取って枕にし、その場所で横になった。
 12 すると彼は夢を見た。
見よ、一つのはしごが地に立てられていた。その上の端は天に届き、見よ、神の使いたちが、そのはしごを上り下りしていた。
13
そして、見よ、主〔ヤハウェ(筆者挿入)〕がその上に立って、こう言われた。
「わたしは、あなたの父アブラハムの神、イサクの神、主〔ヤハウェ(筆者挿入)〕である。わたしは、あなたが横たわっているこの地を、あなたとあなたの子孫に与える。14 あなたの子孫は地のちりのように多くなり、あなたは、西へ、東へ、北へ、南へと広がり、地のすべての部族はあなたによって、またあなたの子孫によって祝福される。15 見よ。わたしはあなたとともにいて、あなたがどこへ行っても、あなたを守り、あなたをこの地に連れ帰る。わたしは、あなたに約束したことを成し遂げるまで、決してあなたを捨てない。」
 16 ヤコブは眠りから覚めて、言った。
「まことに主〔ヤハウェ(筆者挿入)〕はこの場所におられる。それなのに、私はそれを知らなかった。」
17
彼は恐れて言った。
「この場所は、なんと恐れ多いところだろう。ここは神の家にほかならない。ここは天の門だ。」
 18 翌朝早く、ヤコブは自分が枕にした石を取り、それを立てて石の柱とし、柱の頭に油を注いだ。19 そしてその場所の名をベテルと呼んだ。その町の名は、もともとはルズであった。
20
ヤコブは誓願を立てた。
「神が私とともにおられて、私が行くこの旅路を守り、食べるパンと着る衣を下さり、21 無事に父の家に帰らせてくださるなら、主〔ヤハウェ(筆者挿入)〕は私の神となり、22 石の柱として立てたこの石は神の家となります。私は、すべてあなたが私に下さる物の十分の一を必ずあなたに献げます。」2017)とあります。

 「ベテル」(19)と訳されている語のヘブライ語原語は「ベイト エル」で、「神の家」の意です。
 「誓願」とは:
誓願について聖書辞典(抜粋)は次のように述べています。
神が自分の願いを聞き届けてくださった時にある事をする、あるいはあるささげ物をすると約束すること(創世記2820)。時には,あることをしないと約束することもあり、それは物断ち(〈ヘ〉イッサール)と言われる(民数記3014)。誓願を立てることは宗教的な義務ではなく全く個人の自由に任せられていた。しかし誓願をした場合は、それを破ることはできなかった(申命記2321)。それゆえ誓願は軽々しくすべきものではない(箴言2025)。しかし、婦人の誓願は未婚の場合は父が、結婚している場合は夫が、その誓願について知った日にそれを禁じるならば無効とされた。だが夫が、それを聞いた日に禁じなかった場合、後日それを破棄するなら、夫がその責任を負わなければならなかった(民数記30315)。誓願は口に出して言わないなら有効ではなかった(申命記2323)。人身、家畜、土地、その他の財産を誓願の対象とすることができたが、これらのものはすべて金で買い戻すことができた。人身の場合は一定の銀に換算してささげたが、貧しくて定められた額をささげられない場合は、祭司がその人の能力に応じて評価することができた。また汚れた獣、あるいは家屋、土地などを買い戻す場合は、祭司の評価額に5分の1を加えなければならなかった。土地の評価額はヨベルの年までの年数を考慮して定められた。しかしヨベルの年にささげた土地は買い戻すことはできなかった。また初子、十分の一など本来主のものと定められているものは誓願のささげ物とすることはできなかった(レビ27章)。また主の忌みきらわれるものも誓願の対象とすることは禁じられていた(申命記2318)。良いものの代りに悪いものをささげるようなことも禁じられており、これに違反した罪のゆえに人々は責められている(マラキ114)。と記されています。

 聖書を読む限りでは、この聖書箇所に来るまで、ヤコブが直接ヤハウェ(主)に祈った、とは記されていません。またヤコブがヤハウェ(主)と交わりを持っていたとも記されていません。
しかしヤコブは、イサクの祈りや言動を通して、イサクの神がヤハウェ(主)であることを知っていました(創世記2816)。

 ヤコブは、父の家を離れ、ハランまでの心細い旅をしなければならなくなった時に、まことの神であるヤハウェ(主)が、ヤコブに現れてくださったのです。

 ヤハウェ(主)は、完璧なる予知能力をお持ちですから、ヤハウェ(主)を求める人、ヤハウェ(主)を信じるようになる人に現れてくださいます。

 ヤコブの場合は、ヤコブの夢の中に現れてくださいました。
ヤハウェ(主)は、ヤコブがヤハウェ(主)を信じることを知っていました。

 ヤハウェ(主)がヤコブに現れたた時、ヤハウェ(主)は次のように語ったと記されています。
「わたしは、あなたの父アブラハムの神、イサクの神、主〔ヤハウェ(筆者挿入)〕である。わたしは、あなたが横たわっているこの地を、あなたとあなたの子孫に与える。あなたの子孫は地のちりのように多くなり、あなたは、西へ、東へ、北へ、南へと広がり、地のすべての部族はあなたによって、またあなたの子孫によって祝福される。見よ。わたしはあなたとともにいて、あなたがどこへ行っても、あなたを守り、あなたをこの地に連れ帰る。わたしは、あなたに約束したことを成し遂げるまで、決してあなたを捨てない。」(創世記2813-15)とあります。

 キリスト者の中には、「ヤコブはいいな、主が直接語ってくださり、大いなる約束を与えてくださって。」と思う人が、あるいはいるかもしれません。

 キリスト者に対して、主は、御言葉を通して語ってくださることが多くあります。
またキリスト者に対する約束は、聖書に数多く記されています。
主の約束は、その約束を信じることによって自分のものとして実体化されます。
約束の中には、信じればよいというだけのものと、条件付きのもの、すなわち、~をしなさいorでありなさい、そうすれば~、というようなものもあります。

 ヤコブは、ヤハウェ(主)が現れてくださった場所であるルズをベテルと呼びました。
前述したように、ベテルとは、神の家、という意です。
驚くべきことに、キリスト者は、「神の家」=「主の神殿」=「神の宮」なのです。
1
コリント316には、「あなたがたは、自分が神の神殿であり、神の霊が自分たちの内に住んでいることを知らないのですか。」(新共同訳)と記されています。
1
コリント619には、「知らないのですか。あなたがたの体は、神からいただいた聖霊が宿ってくださる神殿であり、あなたがたはもはや自分自身のものではないのです。」(新共同訳)と記されています。

 またキリスト者に対し、エペソ13には、“神はキリストにあって、天上にあるすべての霊的祝福をもって私たちを祝福してくださいました。”(2017)と記されています。
私たちキリスト者は、主の約束を信じることによって、その約束の実体を得ていくことができるのです。

<お祈り>
天のお父様。
あなたの御名を賛美します。
あなたは、あなたの愛に基づくご計画に従って、私たちに多くの約束を与えてくださっておられますから感謝します。
あなたに全幅の信頼を置き、あなたを賛美しながら歩み続けることができますよう祝福してください。
私たちの主キリスト・イエス様の御名で祈ります。アーメン。

2022年2月11日 (金)

離縁してはならない

 マタイ5:31.32を、
2017
は、“31 また『妻を離縁する者は離縁状を与えよ』と言われていました。
32
しかし、わたしはあなたがたに言います。だれでも、淫らな行い以外の理由で自分の妻を離縁する者は、妻に姦淫を犯させることになります。また、離縁された女と結婚すれば、姦淫を犯すことになるのです。と訳し、
新共同訳は、“31 「『妻を離縁する者は、離縁状を渡せ』と命じられている。
32
しかし、わたしは言っておく。不法な結婚でもないのに妻を離縁する者はだれでも、その女に姦通の罪を犯させることになる。離縁された女を妻にする者も、姦通の罪を犯すことになる。」と訳しています。

 山上の垂訓と呼ばれるイエス様の教え(5-7章)は、地上の神の王国に入る者or入った者への教えです。花嫁(キリストの空中再臨時に霊の体を与えられたキリスト者の総体)が、天の神の国に入った後の花婿キリストとの婚宴の時以降には、無意識のうちに義なる思いと行いが出来るようにされていることでしょう。黙示録198に“花嫁は、輝くきよい亜麻布をまとうことが許された。その亜麻布とは、聖徒たちの正しい行いである。”(2017)と記されていますから。

 山上の垂訓で語られた内容は、主が新生された霊の内に住み、その人が主にすべてを明け渡し、主が主権をもってその人を統治しているという、霊の人でなければできないことがたくさん記されています。

 山上の垂訓の中には、律法を変更したのだろうか、と思えるような内容がいくつも出て来ます。今日の箇所もその一つです。
律法が変更されたかのように思えるのは、イスラエルにヤハウェ(主)が与えた当時の律法は、その当時の人の状態を鑑みてヤハウェ(主)が与えたからであろうと思います。しかし、主の御旨は、最初から山上の垂訓で語られた内容のものであったのだろうと思います。
 地上に置かれているキリスト者は、地上の神の王国の民ですから、旧約律法ではなく、イエス様が語られた本来のヤハウェ(主)の御旨に従って歩むことが出来るように、主に魂をきよくして頂き、そして主に輝き出ていただいて歩む必要があるのです。
その時、ヨハネ738の「わたしを信じる者は、聖書が言っているとおり、その人の心の奥底から、生ける水の川〔「川」と訳された原語は複数形。「生ける水の川々」とは「御霊」{次の39節参照}(筆者挿入)〕が流れ出るようになります。」(2017)という主イエス様の御言葉が実現することでしょう。

 マタイ531に、「『妻を離縁する者は、離縁状を渡せ』と命じられている。」(新共同訳)と記されていますが、それのもとになっている申命記24章には次のように記されています。
“1
人が妻をめとり、夫となった後で、もし、妻に何か恥ずべきことを見つけたために気に入らなくなり、離縁状を書いてその女の手に渡し、彼女を家から去らせ、
2
そして彼女が家を出て行って、ほかの人の妻となり、
3
さらに次の夫も彼女を嫌い、離縁状を書いて彼女の手に渡し、彼女を家から去らせた場合、
あるいは、彼女を妻としたあとの夫が死んだ場合には、
4
彼女を去らせた初めの夫は、彼女が汚された後に再び彼女を自分の妻とすることはできない。
それは、主〔ヤハウェ(筆者挿入)〕の前に忌み嫌うべきことだからである。
あなたの神、主〔ヤハウェ(筆者挿入)〕が相続地としてあなたに与えようとしておられる地に、罪をもたらしてはならない。2017)とあります。

 パリサイ人がイエス様を試みるために、離縁についての質問をイエス様にしたことがあります。
パリサイ人が質問した内容は、律法の中の離縁と再婚についての上記の律法を基にしたものであろうと思います。

 マタイ193-9には次のように記されています。
“3
パリサイ人たちがみもとに来て、イエスを試みるために言った。
「何か理由があれば、妻を離縁することは律法にかなっているでしょうか。」
4
イエスは答えられた。
「あなたがたは読んだことがないのですか。創造者ははじめの時から『男と女に彼らを創造され』ました。5 そして、『それゆえ、男は父と母を離れ、その妻と結ばれ、ふたりは一体となるのである』と言われました。6 ですから、彼らはもはやふたりではなく一体なのです。そういうわけで、神が結び合わせたものを人が引き離してはなりません。」
7
彼らはイエスに言った。
「それでは、なぜモーセは離縁状を渡して妻を離縁せよと命じたのですか。」
8
イエスは彼らに言われた。
「モーセは、あなたがたの心が頑ななので、あなたがたに妻を離縁することを許したのです。しかし、はじめの時からそうだったのではありません
9
あなたがたに言います。だれでも、淫らな行い以外の理由で自分の妻を離縁し、別の女を妻とする者は、姦淫を犯すことになるのです。」2017)とあります。

 イエス様がパリサイ人に対して答えた内容を聞いていた弟子たちは、イエス様に何と言ったでしょう?
「もし夫と妻の関係がそのようなものなら、結婚しないほうがましです。」(マタイ19102017)と、イエス様に言ったのです。

 弟子たちの、「結婚しない」という言葉を捉えてイエス様は、話を次のように展開させました。
「そのことばは、だれもが受け入れられるわけではありません。ただ、それが許されている人だけができるのです。母の胎から独身者として生まれた人たちがいます。また、人から独身者にさせられた人たちもいます。また、天の御国のために、自分から独身者になった人たちもいます。それを受け入れることができる人は、受け入れなさい。」(マタイ1911.122017)と。

 教会時代に入ってからのこと、パウロは次のように述べています。
1
コリント725-40には次のように記されています。
“25
未婚の人たちについて、私は主の命令を受けてはいませんが、主のあわれみにより信頼を得ている者として、意見を述べます。
26
差し迫っている危機のゆえに、男はそのままの状態にとどまるのがよい、と私は思います。
27
あなたが妻と結ばれているなら、解こうとしてはいけません。妻と結ばれていないなら、妻を得ようとしてはいけません。
28
しかし、たとえあなたが結婚しても、罪を犯すわけではありません。たとえ未婚の女が結婚しても、罪を犯すわけではありません。ただ、結婚する人たちは、身に苦難を招くでしょう。私はあなたがたを、そのような目にあわせたくないのです。
29
兄弟たち、私は次のことを言いたいのです。時は短くなっています。今からは、妻のいる人は妻のいない人のようにしていなさい。
30
泣いている人は泣いていないかのように、喜んでいる人は喜んでいないかのように、買う人は所有していないかのようにしていなさい。
31
世と関わる人は関わりすぎないようにしなさい。この世の有様は過ぎ去るからです。
32
あなたがたが思い煩わないように、と私は願います。
独身の男は、どうすれば主に喜ばれるかと、主のことに心を配ります。
33
しかし、結婚した男は、どうすれば妻に喜ばれるかと世のことに心を配り、34 心が分かれるのです。
独身の女や未婚の女は、身も心も聖なるものになろうとして、主のことに心を配りますが、
結婚した女は、どうすれば夫に喜ばれるかと、世のことに心を配ります。
35
私がこう言うのは、あなたがた自身の益のためです。あなたがたを束縛しようとしているのではありません。むしろ、あなたがたが品位ある生活を送って、ひたすら主に奉仕できるようになるためです。
36
ある人が、自分の婚約者に対して品位を欠いたふるまいをしていると思ったら、また、その婚約者が婚期を過ぎようとしていて、結婚すべきだと思うなら、望んでいるとおりにしなさい。罪を犯すわけではありません。二人は結婚しなさい。
37
しかし、心のうちに固く決意し、強いられてではなく、自分の思いを制して、婚約者をそのままにしておこうと自分の心で決意するなら、それは立派なふるまいです。
38
ですから、婚約者と結婚する人は良いことをしており、結婚しない人はもっと良いことをしているのです。
39
妻は、夫が生きている間は夫に縛られています。しかし、夫が死んだら、自分が願う人と結婚する自由があります。ただし、主にある結婚に限ります。
40
しかし、そのままにしていられるなら、そのほうがもっと幸いです。
これは私の意見ですが、私も神の御霊をいただいていると思います。2017)とあります。

 キリスト者の永遠の花婿は、キリスト・イエス様です。
エペソ530-32には、「30 私たちはキリストのからだの部分だからです。31 『それゆえ、男は父と母を離れ、その妻と結ばれ、ふたりは一体となるのである。』32 この奥義は偉大です。私は、キリストと教会を指して言っているのです。」(2017)と記されています。

<お祈り>
天のお父様。
あなたの御名を賛美します。
新生した者のすべては、キリストの体であり、キリストの妻であることを覚えて感謝します。
新生させて頂いたキリスト者一人一人はキリストに従い、そしてキリストは私たち一人一人のために愛を注いでくださっておられますことを感謝します。
御父の子どもとして、キリスト・イエス様の妻としてふさわしい歩みをしていくことができますようお整え下さい。
私たちの主キリスト・イエス様の御名で祈ります。アーメン。

2022年2月10日 (木)

擬人化(擬神化)された知恵

 箴言8章には次のように記されています。
“1
知恵は呼びかけないだろうか。英知はその声をあげないだろうか。
2
知恵は、道の傍らにある丘の上、通りの四つ角に立ち、3 町の入り口にある門のそば、正門の入り口で高らかに言う。
4
「人々よ、わたしはあなたがたに呼びかける。人の子らに向かって声をあげる。
5
浅はかな者たちよ、賢さを身につけよ。愚かな者たちよ、良識をわきまえよ。
6
聞け。わたしは高貴なことを語り、わたしの唇からは公正が出るからだ。
7
まことに、わたしの口は真実を告げ、わたしの唇は不義を忌み嫌う。
8
わたしの口のことばはみな正しい。そこには、ねじれたことや曲がったことはない。
9
これらはみな、悟る者には当然のこと。知識を見出す者には正しいこと。
10
金ではなく、わたしの訓戒を受けよ。選り抜きの黄金よりも、知識を受けよ。
11
知恵は真珠にまさり、どんな喜びも、これとは比べられないからだ。
12
知恵であるわたしは賢さを住まいとする。そこには知識と思慮がある。
13
主〔ヤハウェ(筆者挿入)〕を恐れることは悪を憎むこと。わたしは高ぶりと、おごりと、悪の道と、ねじれごとを言う口を憎む。
14
摂理と知性はわたしのもの。わたしは英知であり、わたしには力がある。
15
わたしによって、王たちは治め、君主たちは正義を定める。
16
わたしによって、君主たちは支配する。高貴な人々も、義のすべてのさばき人もそうだ。
17
わたしを愛する者を、わたしは愛する。わたしを熱心に捜す者は、わたしを見出す。
18
富と誉れはわたしとともにある。朽ちない財宝も義も。
19
わたしの果実は黄金よりも、純金よりも良く、わたしの産物は選り抜きの銀にまさる。
20
わたしは義の道を歩む。公正の通り道のただ中を。
21
それは、わたしを愛する者に財産を受け継がせ、彼らの宝庫を満たすためである。
22
主〔ヤハウェ(筆者挿入)〕は、ご自分の働きのはじめに、そのみわざの最初に、わたしを得ておられた。
23
わたしは、大昔に、初めに、大地の始まりの前に、立てられていた。
24
まだ深淵もなく、水のみなぎる源もなかったとき、わたしは生み出された。
25
山が立てられる前に、丘より先に、わたしは生み出された。
26
主がまだ地も野原も、世界の最初のちりも造っておられなかったときに。
27
主が天を堅く立てられたとき、わたしはそこにいた。主が深淵の面に円を描かれたとき、28 上の方に大空を固め、深淵の源を堅く定められたとき、29 海にその境界を置き、その水が主の仰せを越えないようにし、地の基を定められたとき、30 わたしは神の傍らで、これを組み立てる者であった。わたしは毎日喜び、いつも御前で楽しんでいた。
31
主の地、この世界で楽しみ、人の子らを喜んだ。
32
子たちよ、今、わたしに聞き従え。幸いなことよ、わたしの道を守る者は。
33
訓戒を聞け。知恵を得よ。これをなおざりにしてはならない。
34
幸いなことよ。日々わたしの戸の傍らで見張り、わたしの門の柱のわきで見守って、わたしの言うことを聞く人は。
35
なぜなら、わたしを見出す者はいのちを見出し、主〔ヤハウェ(筆者挿入)〕から恵みをいただくが、36 わたしに背を向ける者は自分自身を痛めつけ、わたしを憎む者はみな、死を愛するからだ。」2017)と記されています。

 1節に、知恵は呼びかけないだろうか。英知はその声をあげないだろうか。とあります。
「知恵」と訳されている語のヘブライ語原語は「ホクマー」で、知恵、見識、分別、英知、機知、ウィット、機転、理解力、知力、分別等の意があります。

「英知」と訳されている語のヘブライ語原語は「ターブーン」で、知性、知力の他、議論、論拠、分別、思慮深さ、推察力、巧みさ、知恵、英知等の意があります。

 
「ホクマー」と「ターブーン」をStrong辞書で調べると上記のようにかなりダブった意味を持っています。

 聖書辞典(抜粋)によると、
 知恵については、このことばは聖書の中でさまざまな知的、技術的能力や、またそれによって生み出された箴言、訓戒などを表すものとして用いられている。知識、英知、訓戒、悟り等、同義に使われていることばも多い。と記され、更に、人間的賢さとしての知恵、霊的な力としての知恵、伝え得る知識としての知恵、人格化された知恵等に分けて記されています。
 また聖書辞典(いのちのことば社)には英知についての項目がありません。

 箴言8章に記されている知恵の内容を読むと、擬人化された知恵として、神の御子を暗示しているように思えます。
新約的に置き換えれば御子イエス・キリストです。
旧約時代、油そそがれた者(メシア)は、祭司や王であり、ときに預言者も油を注がれました。
ギリシア語で「油注がれた者」は、「クリストス」と言い、即ちキリストのことです。

 新約的に、箴言8章の「知恵」が、キリストを指し示しているのではないだろうか、という観点から、「知恵」、「英知」を「キリスト」と書き直すと次のようになります。
“1
キリストは呼びかけないだろうか。キリストはその声をあげないだろうか。
2
キリストは、道の傍らにある丘の上、通りの四つ角に立ち、3 町の入り口にある門のそば、正門の入り口で高らかに言う。
4
「人々よ、わたしはあなたがたに呼びかける。人の子らに向かって声をあげる。
5
浅はかな者たちよ、賢さを身につけよ。愚かな者たちよ、良識をわきまえよ。
6
聞け。わたしは高貴なことを語り、わたしの唇からは公正が出るからだ。
7
まことに、わたしの口は真実を告げ、わたしの唇は不義を忌み嫌う。
8
わたしの口のことばはみな正しい。そこには、ねじれたことや曲がったことはない。
9
これらはみな、悟る者には当然のこと。知識を見出す者には正しいこと。
10
金ではなく、わたしの訓戒を受けよ。選り抜きの黄金よりも、知識を受けよ。
11
キリストは真珠にまさり、どんな喜びも、これとは比べられないからだ。
12
キリストであるわたしは賢さを住まいとする。そこには知識と思慮がある。
13
主〔ヤハウェ(筆者挿入)〕を恐れることは悪を憎むこと。わたしは高ぶりと、おごりと、悪の道と、ねじれごとを言う口を憎む。
14
摂理と知性はわたしのもの。わたしはキリストであり、わたしには力がある。
15
わたしによって、王たちは治め、君主たちは正義を定める。
16
わたしによって、君主たちは支配する。高貴な人々も、義のすべてのさばき人もそうだ。
17
わたしを愛する者を、わたしは愛する。わたしを熱心に捜す者は、わたしを見出す。
18
富と誉れはわたしとともにある。朽ちない財宝も義も。
19
わたしの果実は黄金よりも、純金よりも良く、わたしの産物は選り抜きの銀にまさる。
20
わたしは義の道を歩む。公正の通り道のただ中を。
21
それは、わたしを愛する者に財産を受け継がせ、彼らの宝庫を満たすためである。
22
主〔ヤハウェ(筆者挿入)〕は、ご自分の働きのはじめに、そのみわざの最初に、わたしを得ておられた。
23
わたしは、大昔に、初めに、大地の始まりの前に、立てられていた。
24
まだ深淵もなく、水のみなぎる源もなかったとき、わたしは生み出された。
25
山が立てられる前に、丘より先に、わたしは生み出された。
26
主がまだ地も野原も、世界の最初のちりも造っておられなかったときに。
27
主が天を堅く立てられたとき、わたしはそこにいた。主が深淵の面に円を描かれたとき、28 上の方に大空を固め、深淵の源を堅く定められたとき、29 海にその境界を置き、その水が主の仰せを越えないようにし、地の基を定められたとき、30 わたしは神の傍らで、これを組み立てる者であった。わたしは毎日喜び、いつも御前で楽しんでいた。
31
主の地、この世界で楽しみ、人の子らを喜んだ。
32
子たちよ、今、わたしに聞き従え。幸いなことよ、わたしの道を守る者は。
33
訓戒を聞け。キリストを得よ。これをなおざりにしてはならない。
34
幸いなことよ。日々わたしの戸の傍らで見張り、わたしの門の柱のわきで見守って、わたしの言うことを聞く人は。
35
なぜなら、わたしを見出す者はいのちを見出し、主〔ヤハウェ(筆者挿入)〕から恵みをいただくが、36 わたしに背を向ける者は自分自身を痛めつけ、わたしを憎む者はみな、死を愛するからだ。」となります。

 新約聖書の関連聖句をいくつか下記します。
 “15 御子は、見えない神の姿であり、すべてのものが造られる前に生まれた方です。
16
天にあるものも地にあるものも、見えるものも見えないものも、王座も主権も、支配も権威も、万物は御子において造られたからです。つまり、万物は御子によって、御子のために造られました。
17
御子はすべてのものよりも先におられ、すべてのものは御子によって支えられています。(コロサイ1章・新共同訳)

 “1 初めにことばがあった。ことばは神とともにあった。ことばは神であった。
2
この方は、初めに神とともにおられた。
3
すべてのものは、この方によって造られた。造られたもので、この方によらずにできたものは一つもなかった。
14
ことばは人となって、私たちの間に住まわれた。私たちはこの方の栄光を見た。父のみもとから来られたひとり子としての栄光である。この方は恵みとまことに満ちておられた。
15
ヨハネはこの方について証しして、こう叫んだ。「『私の後に来られる方は、私にまさる方です。私より先におられたからです』と私が言ったのは、この方のことです。」
41
彼はまず自分の兄弟シモンを見つけて、「私たちはメシア(訳すと、キリスト)に会った」と言った。(ヨハネの福音書1章・2017

 “24 ・・・神の力、神の知恵であるキリスト・・・
30
・・・あなたがたは神によってキリスト・イエスのうちにあります。キリストは、私たちにとって神からの知恵、すなわち、義と聖と贖いになられました。1コリント1章・2017

 “16 イエスは答えて言われた。「わたしの教えは、自分の教えではなく、わたしをお遣わしになった方の教えである。
17
この方の御心を行おうとする者は、わたしの教えが神から出たものか、わたしが勝手に話しているのか、分かるはずである。
18
自分勝手に話す者は、自分の栄光を求める。しかし、自分をお遣わしになった方の栄光を求める者は真実な人であり、その人には不義がない。(ヨハネ7章・新共同訳)

 キリストは罪を犯したことがなく、その口には欺きもなかった。1ペテロ2222017

<お祈り>
天のお父様。
あなたの御名を賛美します。
コロサイ23に、“キリストのうちに、知恵と知識の宝がすべて隠されています。”(2017)とありますからありがとうございます。
そして新生された霊においては、「主と交わる者は、主と一つの霊になるのです。」(1コリント6172017)と記されていますから感謝します。
霊の人(1コリント215・新共同訳)としての歩みをしていくことができますよう今日も助け導いてください。
私たちの主キリスト・イエス様の御名で祈ります。アーメン。

2022年2月 9日 (水)

神は神を愛する者と共にいる

 詩篇14篇は次のように記されています。
指揮者のために。ダビデによる。
1
愚か者は心の中で、「神はいない」と言う。〔神を知らぬ者は心に言う
「神などない」と。(新共同訳)〕
彼らは腐っていて、忌まわしいことを行う。
善を行う者はいない。
2
主〔ヤハウェ(筆者挿入)〕は天から人の子らを見下ろされた。
悟る者〔目覚めた人(新共同訳)、賢い者(口語訳)〕、神を求める者がいるかどうかと。
3
すべての者が離れて行き、
だれもかれも無用の者となった。
善を行う者はいない。だれ一人いない。
4
不法を行う者は、みな知らないのか。
彼らは、わたしの民を食らいながらパンを食べ、
主〔ヤハウェ(筆者挿入)〕を呼び求めない。
5
見よ、彼らは大いに恐れた。
神は正しい一族とともにおられるからだ。〔神は従う人々の群れにいます。(新共同訳)〕
6
おまえたちは、苦しむ者の計画を、踏みにじろうとするだろう。
しかし主〔ヤハウェ(筆者挿入)〕が彼の避け所である。
〔貧しい者や謙そんな者が悪者に虐待されるとき、神は避け所となってくださいます。(リビングバイブル意訳)〕
7
ああ、イスラエルの救いがシオンから来るように。
主〔ヤハウェ(筆者挿入)〕が御民を元どおりにされるとき、ヤコブは楽しめ。イスラエルは喜べ。
〔ああ、今すぐ救いの時が来ますように。ご自分の民を救うため、主がすぐに、シオン(エルサレム)から駆けつけてくださいますように。ああ、イスラエルが救い出されるときは、どれほどの喜びがもたらされることでしょう。(リビングバイブル意訳)〕2017)とあります。

 1a愚か者は心の中で、「神はいない」と言っている。(新改訳)という聖句を読んだとき、「それは自分だ。」と思った昔のことを思い起こします。

 1b,cには、彼らは腐っていて、忌まわしいことを行う。善を行う者はいない。と記されています。
永遠にして自存、創造者にして全知全能、完全な義を持ち完全な愛をもっている三位一体の神ヤハウェ(主)を畏れ敬い礼拝することなく、正月には神社に行き、初日の出に行った子供の頃、親に連れられて行ったとはいえ、まさしく「彼らは腐っていて、忌まわしいことを行う。善を行う者はいない。」とまことの神であるヤハウェ(主)に言われてしまう存在であったことを覚えます。

 そのような者であった私に、神様は、ご自身の存在を聖書の預言の確かさをもって、また生命体の構成や機能の緻密さを考えさせて、肉の目で見ることは出来ないけれども、神様が実在しておられることを私に知らしめ、救いを求めていた私に、イエス様は、「わたしを信じればよいのだ。」と啓示してくださり、イエス・キリスト様を信じて&信じさせてくださったので、私は救われたのです。

 2節には、“主〔ヤハウェ(筆者挿入)〕は天から人の子らを見下ろされた。
悟る者〔目覚めた人(新共同訳)、賢い者(口語訳)〕、神を求める者がいるかどうかと。”と記されています。
神は死んだ、という人もいますが、神は死ぬことはなく、神ヤハウェ(主)は、絶えず、ご覧になられる神、です。
ヤハウェ(主)は、現在もご覧になっておられますが、驚くべきことに、天地創造の前に、私たちをもご覧になったのだと思います。そして、ヤハウェ(主)は、予知の神でもあります。
ペテロは、「父なる神の予知のままに、御霊による聖別によって、イエス・キリストに従うように、またその血の注ぎかけを受けるように選ばれた人たちへ。」(1ペテロ122017)という聖句を記し、
パウロは、天地創造の前に、神はわたしたちを愛して、御自分の前で聖なる者、汚れのない者にしようと、キリストにおいてお選びになりました。{エフェソ(エペソ)14・新共同訳}という聖句を記し、
僅か二ヵ節の中に、予知、時間、選び、神の愛、御霊による聖別、キリストの血の注ぎかけ、キリストに従うように、聖なるものとすること、等が凝縮されて記されています。

 唯々、まことの神の偉大さに敬服します。

3
節以降を読むと、歴史的には、バビロン捕囚前から捕囚後のユダ王国(南イスラエル王国)の状態をよく表しているように思えます。
これをダビデが記したとすれば(表題の「ダビデによる」という訳のヘブライ語原語は「ダビデのためにorダビデに」とも訳せます)、この詩篇は預言詩でもあります。
エレミヤやバルク(エレミヤ45章参照)、また極めて少数のヤハウェ(主)を信じ、エレミヤを信じていた人たちをも思い浮かべることができます。

 さて、いかなる困難な状況の中にあっても、
「神は従う人々の群れにいます。」(5節・新共同訳)or「神はご自分を愛するものと共におられるからです。」(5節・リビングバイブル)という聖句や、「貧しい者や謙遜な者が悪者に虐待されるとき、神は避けどころとなってくださいます。」(6節・リビングバイブル)という聖句は、私たちにも適用されます。
それどころか、神を愛するキリスト者のうちには、神であられる主が住んでくださっておられるのです。

<お祈り>
天のお父様。
あなたの御名を賛美します。
神様は、私たちを救い、聖別し、また神様は天におられますが、同時に私たちの内にも住んでくださっておられますから感謝します。
今日もあなたの恵みによって生かしてください。
あなたの御名を崇め、あなたに感謝し、私たちの主キリスト・イエス様の御名で祈ります。アーメン。

2022年2月 8日 (火)

イサクの騙しとエサウの憤り

 創世記2736を、
 2017
は、エサウは言った。「あいつの名がヤコブというのも、このためか。二度までも私を押しのけて。私の長子の権利を奪い取り、今また、私への祝福を奪い取った。」また言った。「私のためには、祝福を取っておかれなかったのですか。」と訳し、
 新共同訳は、エサウは叫んだ。「彼をヤコブとは、よくも名付けたものだ。これで二度も、わたしの足を引っ張り(アーカブ)欺いた。あのときはわたしの長子の権利を奪い、今度はわたしの祝福を奪ってしまった。」エサウは続けて言った。「お父さんは、わたしのために祝福を残しておいてくれなかったのですか。」と訳し、
 リビングバイブルは、「ヤコブときたら、全く名前の通りだ。『だます者』(ヤコブという名には『つかむ人』(2526)以外に、この意味もある)とは、よく言ったものだ。あいつは私の長男の権利を奪っただけでは足りず、今度は祝福までも盗んだというわけか。
お父さん、念のため聞きますが、私のためには祝福を残してくれていないのですか。」と訳しています。

 「押しのけて」(2017)、「足を引っ張り」(新共同訳)、「奪う」(リビングバイブル)と訳されている語のヘブライ語原語は「アーカブ」で、膨張する、かかとをつかむ、(ずる賢い方法で問題・規制などを)避ける、回避する、押さえる、支配する、(策略や力ずくで人の)地位を奪い取る、(不適切なものを)置き換える、取って代わる、等の意があります。

 エサウは、ヤコブのことを、「二度までも私を押しのけて。私の長子の権利を奪い取り、今また、私への祝福を奪い取った。」と語りました。

 ヤコブは、エサウから長子の権利を奪い取りました、と言うか、獲得しました。
但し、この件については、両者の合意があったのです。
そのことは、創世記2529-34に次のように記されています。
“29
さて、ヤコブが煮物を煮ていると、エサウが野から帰って来た。彼は疲れきっていた。30 エサウはヤコブに言った。
「どうか、その赤いのを、そこの赤い物を食べさせてくれ。疲れきっているのだ。」それで、彼の名はエドムと呼ばれた。
31
するとヤコブは、「今すぐ私に、あなたの長子の権利を売ってください」と言った。
32
エサウは、「見てくれ。私は死にそうだ。長子の権利など、私にとって何になろう」と言った。
33
ヤコブが「今すぐ、私に誓ってください」と言ったので、エサウはヤコブに誓った。こうして彼は、自分の長子の権利をヤコブに売った。
34
ヤコブがエサウにパンとレンズ豆の煮物を与えたので、エサウは食べたり飲んだりして、立ち去った。こうしてエサウは長子の権利を侮った。2017)とあります。

 エサウは、ヤコブのことを、「二度までも私を押しのけて。私の長子の権利を奪い取り、今また、私への祝福を奪い取った。」と語った後半の方は、ヤコブの母リベカの策略に従って、ヤコブが父イサクをだまし、イサクからエサウへの祝福を奪い取ったのです。
目が見えなくなっている父イサクは、ヤコブがエサウに変装しているのを見抜けず、次のように祝福しました。
28 神がおまえに天の露と地の肥沃、豊かな穀物と新しいぶどう酒を与えてくださるように。29 諸国の民がおまえに仕え、もろもろの国民がおまえを伏し拝むように。おまえは兄弟たちの主となり、おまえの母の子がおまえを伏し拝むように。おまえを呪う者がのろわれ、おまえを祝福する者が祝福されるように。」(創世記27章・2017)とあります。

 エサウが父イサクに、「お父さん、祝福は一つしかないのですか。お父さん、私を祝福してください。私も。」(創世記27382017)と願い、エサウは声をあげて泣きました。
イサクはどのように言ったでしょう?
39 見よ。おまえの住む所には地の肥沃がなく、上から天の露もない。40 おまえは自分の剣によって生き、自分の弟に仕えることになる。しかし、おまえが奮い立つなら、おまえは自分の首から彼のくびきを解き捨てるだろう。」(創世記37章・2017)と語ったと記されています。

 エサウはヤコブを恨みました。創世記2741には次のように記されています。
エサウは、父がヤコブを祝福した祝福のことで、ヤコブを恨んだ。それでエサウは心の中で言った。「父の喪の日も近づいている。そのとき、弟ヤコブを殺してやろう。」(創世記27412017)と。

 結局、ヤコブは、エサウから逃げることになりました。
そして20年後、ヤコブとエサウは再開するのです。
エサウは、ヤコブに会った時、ヤコブに対して愛と善意をもって接したのです。
創世記334には、“エサウは迎えに走って来て、彼を抱きしめ、首に抱きついて口づけし、二人は泣いた。”(2017)と記されています。
 更に、創世記338-16には次のように記されています。
“8
するとエサウは、「私が出会ったあの一群すべては、いったい何のためのものか」と尋ねた。
ヤコブは「あなた様のご好意を得るためのものです」と答えた。
9
エサウは、「私には十分ある。弟よ、あなたのものは、あなたのものにしておきなさい」と言った。
10
ヤコブは答えた。「いいえ。もしお気に召すなら、どうか私の手から贈り物をお受け取りください。私は兄上のお顔を見て、神の御顔を見ているようです。兄上は私を喜んでくださいましたから。11 どうか、兄上のために持参した、この祝いの品をお受け取りください。神が私を恵んでくださったので、私はすべてのものを持っていますから。」ヤコブがしきりに勧めたので、エサウは受け取った。
12
エサウが、「さあ、旅を続けて行こう。私があなたのすぐ前を行くから」と言うと、
13
ヤコブは彼に言った。「あなた様もご存じのように、子どもたちは弱く、乳を飲ませている羊や牛は私が世話をしています。一日でも、ひどく追い立てると、この群れはすべて死んでしまいます。14 あなた様は、しもべより先にお進みください。私は、前を行く家畜や子どもたちの歩みに合わせて、ゆっくり旅を続け、あなた様のもと、セイルへ参ります。」
15
それで、エサウは言った。
「では、私と一緒にいる者の何人かを、あなたのもとに残しておくことにしよう。」
ヤコブは言った。「とんでもないことです。私はご主人様のご好意を十分に受けております。」
16
エサウは、その日、セイルへ帰って行った。2017)とあります。

 エサウが自分の妻にした女性は、カナンの娘でした(創世記2746)。
 エサウの子孫のエドム民族は、多神教でした。
2
歴代誌2514には、「セイル(エドム)人の神々……」(2017)と複数形で記されています。

 
ヒューマニズムの観点から言ったら、エサウはヤコブよりも良い人なのではないかと私には思えます。
しかし、エサウは真剣にヤハウェ(主)に向き合うことはなかったのであろうと思います。そのような記事が聖書に記されていませんから。
一方、ヤコブは、兄のもとから逃げ出した後、ヤハウェ(主)と共に歩み出していくのです。

 万物の根源であられるまことの神ヤハウェ(主)を自分の神として畏れ敬うか否かが、神ヤハウェ(主)の評価の分かれ目になります。

 ヤハウェ(主)とは、神の呼称ですから、新約的には、キリスト・イエス様を「主」とするか否かが、まことの神の評価の分かれ目になるのです。
キリスト・イエス様を通さなければ、父なる神のもとへ行くことは出来ません。
イエス様は、「わたしが道であり、真理であり、いのちなのです。わたしを通してでなければ、だれも父のみもとに行くことはできません。」(ヨハネ1462017)と教えてくださいました。

<お祈り>
天のお父様。
あなたの御名を賛美します。
悪魔(サタン)は、進化論を導入し、創造者であるまことの神様を排除し、主権在神ではなく、主権在人を導入しました。
まことの神様を知らないorまことの神様と交わりを持てない人は、まことの神様抜きで事の善悪を判断します。
しかしあなたは、先ず、あなたを畏れ敬うことが大切であることを教えておられます。
価値判断を誤ることがありませんように。
求道者の人たちに届いてください。
私たちの主キリスト・イエス様の御名で祈ります。アーメン。
・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・
人間の言い伝えにすぎない哲学、つまり、むなしいだまし事によって人のとりこにされないように気をつけなさい。それは、世を支配する霊に従っており、キリストに従うものではありません。(コロサイ28・新共同訳)
“36
「先生、律法の中でどの戒めが一番重要ですか。」
37
イエスは彼に言われた。
「『あなたは心を尽くし、いのちを尽くし、知性を尽くして、あなたの神、主を愛しなさい。』38 これが、重要な第一の戒めです。」(マタイ22章・2017

2022年2月 7日 (月)

痛い思いをしても地獄に行くよりも天国に行く方が良い

 マタイ527-30には次のように記されています。
“27
『姦淫してはならない』と言われていたのを、あなたがたは聞いています。
28
しかし、わたしはあなたがたに言います。情欲を抱いて女を見る者はだれでも、心の中ですでに姦淫を犯したのです。
29
もし右の目があなたをつまずかせるなら、えぐり出して捨てなさい。からだの一部を失っても、全身がゲヘナに投げ込まれないほうがよいのです。
30
もし右の手があなたをつまずかせるなら、切って捨てなさい。からだの一部を失っても、全身がゲヘナに落ちないほうがよいのです。2017)とあります。

 日ごとの恵みシリーズでは、現在のところ、旧約三箇所(創世記、詩篇、箴言)と、新約一箇所(マタイの福音書)を順繰りに扱っています。昨日の箇所と今日の箇所のテーマが同じになってしまいましたので、飛ばしてしまおうかとも思ったのですが、飛ばさないことにしました。

 長文になりますが、今日の箇所をBIBLE navi は次のように述べています。
27,28節に関して、(筆者挿入)〕配偶者以外との性的関係は悪いと、旧約聖書の律法は宣言する(出エジプト2014)。この命令が与えられたのは、神から与えられた欠くことの出来ない男女の関係を保護し、家庭全体を破壊勢力から守るためである。配偶者以外と関係を持ちたいという欲望を持つだけで、それは配偶者との関係や他の人々との関係の品位を汚し、従って罪であると、イエスは言った。もし行為が悪ければ、その意図も悪いと、イエスは強調した。からだにおいては貞節であっても、心が貞節でないなら、ゆるぎない夫婦関係に重要な信頼が損なわれる。結婚外の性行為を避けることで問題の半分は解決する。イエスは、思想が行動と協力して品位を保つように、心と知力も変えられることを望んでおられる。異性に対する自然な関心や健全な性欲を非難しているのではなく、行動に表れたら罪深くて人を傷つけることを空想し、その思いで意図的に何度も心を満たすことを非難しておられるのである。
 好色な思考が罪なら、いっそ行動を起こしてしまったほうがよいのでは、と考える人もいる。罪深い欲望を行動に表すことは、いくつかの点で有害である。
1)罪を犯すのをやめるより、言い逃れに努めるようになる。
2)結婚と家庭を破壊する。
3)神のみことばに対する意図的反抗である。
4)当人だけでなく、常に他の人も傷つける。
 罪深い行為は、罪深い欲望よりも危険である。だからこそ欲望を行動に移してはならない。イエスは、私たちが心と知力を守り、異性に対して適切な態度をとることを望んでおられる。配偶者でない人に対する利己的な欲望のとりこになっているなら、助けを求める必要があるだろう。神に、心と知力が守られ、相手を神の愛する子として見ることが出来るようにと願おう。
 〔29,30節に関して、(筆者挿入)〕イエスが目や手を取り除けと言ったのは、比喩的表現である。目が不自由でも欲情を持つことはできるのだから、文字どおり目をえぐり出せという意味ではない。しかし、もしそれが唯一の選択であるなら、片方の目と手で天にはいる方が、両目と両手でゲヘナへ行くよりもよい。 抑制しないでおくとやがて自分を破壊する罪を、生活の中で許容してしまうことがある。罪によってさばきと有罪判決を受けるよりも、それを取り除く苦痛を経験する(悪い習慣や、大切にしている物を捨てるなど)ほうがよい。生活の中に、あなたに罪を犯させるようなものがないか調べ、それを取り除くため必要なあらゆる手段をとろう。と記しています。

 BIBLE navi を転記しただけでは申し訳ないので、その文章の、片方の目と手で天にはいる方が、両目と両手でゲヘナへ行くよりもよい。という箇所から、少し書かせて頂きます。

 天国がどれほど良いところなのか、天国を見てきたパウロ(2コリント122)は次のように言っています。
「今の時の苦難は、やがて私たちに啓示される栄光に比べれば、取るに足りないと私は考えます。」(ローマ8182017
この節を、
口語訳は、「わたしは思う。今のこの時の苦しみは、やがてわたしたちに現されようとする栄光に比べると、言うに足りない。」と訳し、
リビングバイブルは、「けれども、私たちが今味わっている苦しみは、後に私たちが受ける栄光に比べたら、取るに足りないものです。」と訳しています。

 これを書いたパウロは、次のような苦難の体験をしてきた人です。
“24
ユダヤ人から四十に一つ足りないむちを受けたことが五度、
25
ローマ人にむちで打たれたことが三度、
石で打たれたことが一度、
難船したことが三度、一昼夜、海上を漂ったこともあります。
26
何度も旅をし、川の難、盗賊の難、同胞から受ける難、異邦人から受ける難、町での難、荒野での難、海上の難、偽兄弟による難にあい、
27
労し苦しみ、たびたび眠らずに過ごし、飢え渇き、しばしば食べ物もなく、寒さの中に裸でいたこともありました。
28
ほかにもいろいろなことがありますが、さらに、 日々私に重荷となっている、すべての教会への心づかいがあります。2コリント11章・2017)とパウロは証言しています。
このことを書いた執筆年代は、56年か57年頃といわれています。
この後もパウロは、様々な苦難に会いました。彼が天に召されたのは、67年頃と考えられています。
そのパウロが、「今の時の苦難は、やがて私たちに啓示される栄光に比べれば、取るに足りないと私は考えます。」と語ったのです。

<お祈り>
天のお父様。
あなたの御名を賛美します。
様々な苦難や色々な誘惑に屈することなく、私たち全員が天を目指して、歩み続けていけますよう助け導いてください。
私たちの主キリスト・イエス様の御名で祈ります。アーメン。

2022年2月 6日 (日)

情欲の戒め/勝利への方法

 箴言76-23には次のように記されています。
“6
私が家の窓から、格子窓から見下ろして、7 浅はかな者たちを見ていると、若者たちのうちに、良識のない一人の若い者がいるのに気づいた。
8
彼は、女の家への曲がり角近くの街路を通って、その家に至る道を進んで行った。
9
それは、たそがれの、日の沈むころ、夜と暗闇の始まるころだった。
10
すると、遊女の装いをして、本心を隠したある女が彼を迎えた。
11
この女は騒がしく、頑なで、その足は自分の家にとどまらず、12 あるときは通りに、あるときは広場にいて、あちこちの角のところで待ち構えていた。
13
この女は彼を捕まえて口づけし、臆面もなく彼に言う。
14
「交わりのいけにえを献げなければならないので、私は今日、自分の誓願を果たしました。15 それで私はあなたに会いに出て来ました。あなたを捜し求めて、やっと見つけました。16 私は長椅子に敷き物を、あや織りのエジプトの亜麻布を敷き、17 寝床を没薬、アロエ、シナモンで香らせました。18 さあ、私たちは朝まで愛に酔いしれ、愛の喜びを互いに味わいましょう。19 夫は遠くへ旅に出ていて、家にはいませんから。20 金の袋を持って行きました。満月のころに帰って来るでしょう」と。
21
彼女は心動かすことばで彼を誘惑し、滑らかな唇で彼をいざなう。
22
彼はただちに、彼女の後について行く。牛が屠り場に引かれて行くように、足かせが愚か者を懲らしめているかのように。
23
最後は矢が彼の肝を射抜く。それは、自分のいのちがかかっているのを知らずに、鳥が罠に飛び込むようなものだ。2017)とあります。

 異性を誘うのに、この様な方法以外にも色々な方法があるのでしょうが、性を用いた誘惑を悪しき霊はよく使います。それは、人のうちにも性的欲求があるので用いやすいのでしょう。

 この箇所では、女性が男性を誘惑していますが、男性が下心を隠して女性を誘惑する場合も大いにあります。

 ヤハウェ(主)は、十の言葉(十戒)の中で、
「姦淫してはならない。」(出エジプト20142017)と語られ、
「あなたの隣人の家を欲してはならない。あなたの隣人の妻、男奴隷、女奴隷、牛、ろば、すべてあなたの隣人のものを欲してはならない。」(出エジプト20172017)と語られました。
「すべてあなたの隣人のものを欲してはならない。」(2017)と訳されている箇所を、
聖書協会共同訳は、「隣人のものを一切欲してはならない。」と訳しています。
私的にヘブライ語聖書を訳すと、聖書協会共同訳のようになります。
「隣人」と訳されている語のヘブライ語原語は「レア」で、友人、仲間、同僚、兄弟、夫or妻、恋人、隣人、等の意があります。

 神ヤハウェ(主)が、禁止していることを行うと、一時楽しめたとしても、良いことはありません。

 箴言のこの箇所の続きには次のように記されています。
“24
子たちよ。今、私に聞き従い、注意して私の口のことばを聞け。
25
彼女の道に、心がそれて行ってはならない。その通り道に迷い込んではならない。
26
この女は多くの者を切り倒し、殺された者は数えきれない。
27
その女の家はよみへの道。死の部屋に下って行く。2017)とあります。

 BIBLE navi は、この箇所から次のように述べています。
性的な罪を避けるための確かな段階がある。
第一に、あなたの思いを守ろう。誤った願望を刺激するような本を読んだり、画像を見たり、想像をふくらませたりしてはならない。
第二に、あなたを罪へと誘惑する状況や友人から離れよう。
第三に、その一時だけのことを考えるのではなく、未来に焦点を当てよう。今日の興奮が明日の破滅をもたらしうるのだ。と記しています。

 箴言のこの箇所は、性的な事柄ですが、肉の行いの事柄はすべて避けることです。
肉の行いについてガラテヤ5章には次のように記されています。
“19
肉のわざは明らかです。すなわち、淫らな行い、汚れ、好色、20 偶像礼拝、魔術、敵意、争い、そねみ、憤り、党派心、分裂、分派、21 ねたみ、泥酔、遊興、そういった類のものです。以前にも言ったように、今もあなたがたにあらかじめ言っておきます。このようなことをしている者たちは神の国を相続できません。2017)とあります。

 使徒ヨハネは、「すべて世にあるもの、すなわち、肉の欲、目の欲、暮らし向きの自慢〔「見栄を張った生活」(聖書協会共同訳)〕は、御父から出るものではなく、世から出るものだからです。」(1ヨハネ2162017)と述べています。
ヨハネは更に続けて次のように述べています。
「世も、世の欲も、過ぎ去ります。しかし、神の御心を行う者は、永遠にとどまります。」(1ヨハネ217・聖書協会共同訳)と記されています。

 パウロは勝利への方法を次のように記しています。
「キリスト・イエスのものとなった人たちは、肉を欲情や欲望もろとも十字架につけてしまったのです。」(ガラテヤ524・新共同訳)と述べ、
「・・。私たちの古い人がキリストとともに十字架につけられたのは、罪のからだが滅ぼされて、私たちがもはや罪の奴隷でなくなるためです。」(ローマ662017)と述べ、
「わたしたちは、霊〔御霊(新改訳)〕の導きに従って生きているなら、霊〔御霊(新改訳)〕の導きに従ってまた前進しましょう。」(ガラテヤ525・新共同訳)と述べ、
「・・。霊〔御霊(新改訳)〕の導きに従って歩みなさい。そうすれば、決して肉の欲望を満足させるようなことはありません。」(ガラテヤ516・新共同訳)と述べています。

<お祈り>
天のお父様。
あなたの御名を賛美します。
イエス・キリスト様が十字架につかれたとき、私たちの罪の贖いのためだけではなく、私たちの古い人もキリストと共に十字架につけられていますことを感謝します。
イエス・キリスト様が十字架につかれたとき、私たちの古い人もイエス・キリスト様の肉の内にあって十字架につけられたことを信じて御霊によって歩む者であらせてください。
私たちの主キリスト・イエス様の御名で祈ります。アーメン。

2022年2月 5日 (土)

永遠のいのちを与えられ、とこしえの祝福が約束されているキリスト者の幸い

 詩篇13篇には次のように記されています。
“指揮者のために。ダビデの賛歌。
1 主〔ヤハウェ(筆者挿入)〕よ、いつまでですか。あなたは私を永久にお忘れになるのですか。
いつまで、御顔を私からお隠しになるのですか。
2 いつまで、私は自分のたましいのうちで、思い悩まなければならないのでしょう。
私の心には、一日中悲しみがあります。
いつまで、敵が私の上におごり高ぶるのですか。
3 私に目を注ぎ、私に答えてください。
私の神、主〔ヤハウェ(筆者挿入)〕よ。
私の目を明るくしてください。
私が死の眠りにつかないように。
4 「彼に勝った」と、私の敵が言わないように。
私がぐらつくことを、逆らう者が喜ばないように。
5 私はあなたの恵みに拠り頼みます。
私の心はあなたの救いを喜びます。
6 私は主〔ヤハウェ(筆者挿入)〕に歌を歌います。
主が私に良くしてくださいましたから。”(2017)とあります。

 1-4節を読むと、ダビデが窮地に置かれていることがわかります。
窮地にあるダビデの祈りに、ヤハウェ(主)は直ちに答えたのではなかったようです。
それは、ダビデには万事休す、と思えたようですが、ヤハウェ(主)はすぐに対処しなくても大丈夫であるということが分かっていたのだろうと思います。ヤハウェ(主)は全知の神ですから。
ヤハウェ(主)は、ダビデの祈りに即答しないことによって、ダビデの信仰を、信仰から信仰へと進ませているのです。

 5節aには、「私はあなたの恵みに拠り頼みます。」とあり、ダビデは、主の恵みにより頼んでいます。
これはキリスト者にとっても、極めて大切なことです。
キリスト者は、恵みによって、信仰によって救われました。
エペソ2:8,9を、口語訳は、「あなたがたの救われたのは、実に、恵みにより、信仰によるのである。それは、あなたがた自身から出たものではなく、神の賜物〔神様からいただいたもの(筆者挿入)〕である。決して行いによるのではない。それは、だれも誇ることがないためなのである。」と訳しています。

 使徒ヨハネは、「私たちはみな、この方〔イエス・キリスト(筆者挿入)〕の満ち満ちた豊かさの中から、恵みの上にさらに恵みを受けた。」(ヨハネ1:16・2017)と語っています。
主イエス様と御父と御聖霊の本質は同質です。
イエス様について書かれている御性質を御父も御聖霊も持っています。
私たちは、まことの神である主の恵みによって生かされ、地上で、あるいは天上で生かされている者です。

 エペソ(エフェソ)1:3には、御父がキリスト者に与えてくださった恵みが次のように記されています。
 2017は、「神はキリストにあって、天上にあるすべての霊的祝福をもって私たちを祝福してくださいました。」と訳し、
 新共同訳は、「神は、わたしたちをキリストにおいて、天のあらゆる霊的な祝福で満たしてくださいました。」と訳し、
 フランシスコ会訳は、「神は、キリストに結ばれたわたしたちを天上のあらゆる霊的祝福をもって祝福してくださいました。」と訳しています。

 キリスト者は、既に与えられている恵みを信仰によって得ながら歩んでいくのです。
銀行のキャッシュカードを使えばお金が引き出せるように、私たちが主に信頼し、主が約束された御言葉に信頼すれば、その御言葉の実体が私たちにもたらされるのです。主が約束されなかった事柄について祈った場合には、与えられるのか与えられないのか定かではありません。主が御心にかなうと判断されれば、与えてくださるでしょうが、主の御心にかなわないと判断されれば、与えられないのです。しかし、後者の場合にも例外はあります。それは矯正するためです(民数記11章を参照)。また、信仰の持ち始めの頃は、主への信仰を増させるために、或いは、目では見ることの出来ない主である故に、主は、主の存在が確かであることを教えるために、少々外れた祈りでも応えてくださることがあります(これは主の御旨にかなったことですが)。

 5b,6節には、
“5b私の心はあなたの救いを喜びます。
6 私は主〔ヤハウェ(筆者挿入)〕に歌を歌います。
主が私に良くしてくださいましたから。”と記されています。

 ダビデは、ヤハウェ(主)に救って頂き感謝をささげています。
祈ったからといって、祈った通りにはならず、自分の思いとは異なる結果を、主につきつけられる場合もあります。
その場合に、詩篇119:71を記した詩聖のように言える人は幸いだと思います。
 詩篇119:71を、
 2017は、「苦しみにあったことは私にとって幸せでした。それにより私はあなたのおきてを学びました。」と訳し、
 フランシスコ会訳は、「苦しみに遭ったのは私には良いことでした。あなたの掟を学ぶためでした。」と訳し、
 新共同訳は、「卑しめられたのはわたしのために良いことでした。わたしはあなたの掟を学ぶようになりました。」と訳し、
 リビングバイブルは71,72節を合わせて、「あなたから懲らしめを受けたことは、この上ない幸いでした。私はそのため、おきてに目を向けることを学びました。このおきてこそ、金や銀より価値あるものです。」と意訳しています。

 詩篇102:19(新改訳は18節)を、
 新改訳2017は、「このことが後の世代のために書き記され、新しく造られる民が主を賛美しますように。」と訳し、 
 聖書協会共同訳は、「このことは後の世代のために書き記されるべきです。新たに〔「新たに」は補足(欄外注)〕創造される民は主を賛美するでしょう。」と訳しています。
「賛美するでしょう。」(聖書協会共同訳)と訳されている語は、ヘブライ語の未完了形です。
 神様にとって「~でしょう」というのは、そうなるかも知れないが、そうはならないかも知れない、というものではなく、神様にとっての未完了形は、完了形に変わる時が来るのです。
この節では、神が新しく創造された民が現れたら、完了形になるということです。
キリスト者は、キリストを信じたときに、堕罪したアダム由来の人ではなく、新しく生まれたのです。新しく生まれたのは霊でした。霊の人は、如何なる時にも主を賛美するのです。
やがて、新生した人は体を霊の体に創造されます。
その時には、すべてのキリスト者は主を賛美することでしょう。
この節を新共同訳は、「このことは書き記されねばならない。「主を賛美するために民は創造された。」と訳しています。時の先取りですね。
エペソ1:6、12、14を参照してみてください。

<お祈り>
天のお父様。
あなたの御名を賛美します。
あなたは、キリストにあって永遠のいのちを与えてくださり、とこしえの祝福を約束してくださっておられますから御名を崇めて感謝します。
いつも霊の人としてあなたを賛美しつつ歩み続ける者であらせてください。
私たちの主キリスト・イエス様の御名で祈ります。アーメン。

2022年2月 4日 (金)

リベカの策略とその策略に従ったヤコブ/先ず祈ることの重要性

 高齢になったイサクの失敗が、創世記271-4には次のように記されています。
“1
イサクが年をとり、目がかすんでよく見えなくなったときのことである。彼は上の息子エサウを呼び寄せて、「わが子よ」と言った。
すると彼は「はい、ここにおります」と答えた。
2
イサクは言った。
「見なさい。私は年老いて、いつ死ぬか分からない。3 さあ今、おまえの道具の矢筒と弓を取って野に出て行き、私のために獲物をしとめて来てくれないか。4 そして私のために私の好きなおいしい料理を作り、ここに持って来て、私に食べさせてくれ。私が死ぬ前に、私自ら、おまえを祝福できるように。」2017)とあります。

 普通は、長子に長子の権利として他の者の2倍の祝福を与える、ということのようでした。ですから、イサクのこの行為時代は、おかしくは思えませんが、エサウとヤコブに関しての今までの出来事がありました。

 まず、リベカの妊娠中のことです。創世記2521-26には次のように記されています。
“21
イサクは、自分の妻のために主〔ヤハウェ(筆者挿入)〕に祈った。彼女が不妊の女だったからである。主〔ヤハウェ(筆者挿入)〕は彼の祈りを聞き入れ、妻リベカは身ごもった。
22
子どもたちが彼女の腹の中でぶつかり合うようになったので、彼女は「こんなことでは、いったいどうなるのでしょう、私は」と言った。そして、主〔ヤハウェ(筆者挿入)〕のみこころを求めに出て行った。
23
すると主〔ヤハウェ(筆者挿入)〕は彼女に言われた。
「二つの国があなたの胎内にあり、二つの国民があなたから分かれ出る。一つの国民は、もう一つの国民より強く、兄が弟に仕える。」
24
月日が満ちて出産の時になった。すると見よ、双子が胎内にいた。
25
最初に出て来た子は、赤くて、全身毛衣のようであった。それで、彼らはその子をエサウと名づけた。
26
その後で弟が出て来たが、その手はエサウのかかとをつかんでいた。それで、その子はヤコブと名づけられた。
イサクは、彼らを生んだとき、六十歳であった。2017)とあります。
 26節に、その後で弟が出て来たが、その手はエサウのかかとをつかんでいた。それで、その子はヤコブと名づけられた。とありますが、「ヤコブ」のヘブライ語原語「ヤアコブ」の意味には、heel catcher(かかとをつかむ者)、取って代わるもの、の意があります。

 ヤハウェ(主)は、リベカの祈りに対して、「兄が弟に仕える。」と言われたのです。

 この箇所に関連する解説がローマ97-16に次のように記されています。
“7
アブラハムの子どもたちがみな、アブラハムの子孫だということではありません。むしろ、「イサクにあって、あなたの子孫が起こされる」からです。
8
すなわち、肉の子どもがそのまま神の子どもなのではなく、むしろ、約束の子どもが子孫と認められるのです。
9
約束のみことばはこうです。「わたしは来年の今ごろ来ます。そのとき、サラには男の子が生まれています。」
10
それだけではありません。一人の人、すなわち私たちの父イサクによって身ごもったリベカの場合もそうです。
11
その子どもたちがまだ生まれもせず、善も悪も行わないうちに、選びによる神のご計画が、12 行いによるのではなく、召してくださる方によって進められるために、「兄が弟に仕える」と彼女に告げられました
13
「わたしはヤコブを愛し、エサウを憎んだ」〔マラキ12,3(筆者挿入)〕と書かれているとおりです。
14
それでは、どのように言うべきでしょうか。神に不正があるのでしょうか。決してそんなことはありません。
15
神はモーセに言われました。
「わたしはあわれもうと思う者をあわれみ、いつくしもうと思う者をいつくしむ。」
16
ですから、これは人の願いや努力によるのではなく、あわれんでくださる神によるのです。2017)とあります。

 リベカは、ヤハウェ(主)の御告げがあることと自分の好みの故に、イサクがヤコブを祝福し、後継者としてほしかったのです。
一方イサクは、自分の好きな食べ物を捕って来てくれるエサウを愛していました(創世記272-4)。

 エサウは長子の権利を侮ったことがありました。創世記2527-34には次のように記されています。
“27
この子どもたち〔エサウとヤコブ(筆者挿入)〕は成長した。
エサウは巧みな狩人、野の人であったが、
ヤコブは穏やかな人で、天幕に住んでいた。
28
イサクはエサウを愛していた。猟の獲物を好んでいたからである。
しかし、リベカはヤコブを愛していた。
29
さて、ヤコブが煮物を煮ていると、エサウが野から帰って来た。彼は疲れきっていた。
30
エサウはヤコブに言った。
「どうか、その赤いのを、そこの赤い物を食べさせてくれ。疲れきっているのだ。」
それで、彼の名はエドムと呼ばれた。
31
するとヤコブは、「今すぐ私に、あなたの長子の権利を売ってください」と言った。
32
エサウは、「見てくれ。私は死にそうだ。長子の権利など、私にとって何になろう」と言った。
33
ヤコブが「今すぐ、私に誓ってください」と言ったので、エサウはヤコブに誓った。こうして彼は、自分の長子の権利をヤコブに売った。
34
ヤコブがエサウにパンとレンズ豆の煮物を与えたので、エサウは食べたり飲んだりして、立ち去った。
こうしてエサウは長子の権利を侮った。2017)とあります。

 この箇所を例に挙げて、しっかり信仰に留まるようにと、ヘブル1215-29には次のように記されています。
“15
だれも神の恵みから落ちないように、また、苦い根が生え出て悩ませたり、これによって多くの人が汚されたりしないように、気をつけなさい。
16
また、だれも、一杯の食物と引き替えに自分の長子の権利を売ったエサウのように、淫らな者、俗悪な者にならないようにしなさい
17
あなたがたが知っているとおり、彼は後になって祝福を受け継ぎたいと思ったのですが、退けられました。涙を流して求めても、彼には悔い改めの機会が残っていませんでした。
18
あなたがたが近づいているのは、手でさわれるもの、燃える火、黒雲、暗闇、嵐、19 ラッパの響き、ことばのとどろきではありません。そのことばのとどろきを聞いた者たちは、それ以上一言も自分たちに語らないでくださいと懇願しました。
20
彼らは、「たとえ獣でも、山に触れるものは石で打ち殺されなければならない」という命令に耐えることができませんでした。
21
また、その光景があまりに恐ろしかったので、モーセは「私は怖くて震える」と言いました。
22
しかし、あなたがたが近づいているのは、シオンの山、生ける神の都である天上のエルサレム、無数の御使いたちの喜びの集い23 天に登録されている長子たちの教会、すべての人のさばき主である神、完全な者とされた義人たちの霊24 さらに、新しい契約の仲介者イエス、それに、アベルの血よりもすぐれたことを語る、注ぎかけられたイエスの血です
25
あなたがたは、語っておられる方を拒まないように気をつけなさい。地上において、警告を与える方を拒んだ彼らが処罰を免れなかったとすれば、まして、天から警告を与える方に私たちが背を向けるなら、なおのこと処罰を免れられません。
26
あのときは御声が地を揺り動かしましたが、今は、こう約束しておられます。「もう一度、わたしは、地だけではなく天も揺り動かす。」
27
この「もう一度」ということばは、揺り動かされないものが残るために、揺り動かされるもの、すなわち造られたものが取り除かれることを示しています。
28
このように揺り動かされない御国を受けるのですから、私たちは感謝しようではありませんか。感謝しつつ、敬虔と恐れをもって、神に喜ばれる礼拝をささげようではありませんか29 私たちの神は焼き尽くす火なのです。2017)とあります。

 三一の神であるヤハウェ(主)は、驚くべき予知能力をお持ちです。
それ故、エサウとヤコブが誕生する前に、弟が兄に仕える、と語られ、預言者マラキに次のように語らせたのです。
“1
宣告。マラキを通してイスラエルに臨んだ主〔ヤハウェ(筆者挿入)〕のことば。
2
「わたしはあなたがたを愛している。──主〔ヤハウェ(筆者挿入)〕は言われる──
しかし、あなたがたは言う。『どのように、あなたは私たちを愛してくださったのですか』と。
エサウはヤコブの兄ではなかったか。──主〔ヤハウェ(筆者挿入)〕のことば──しかし、わたしはヤコブを愛した。3 わたしはエサウを憎み、彼の山を荒れ果てた地とし、彼の相続地を荒野のジャッカルのものとした。(マラキ1章・2017)と記されています。
マラキはB.C.400年代の預言者です。今日のイサク、リベカ、ヤコブ、エサウの話は、預言者マラキが生きた時代よりも1000年以上も昔のことになります。

 さて、イサクはエサウを祝福しようとしましたが、リベカは、ヤコブに祝福を受けさせようと一計を案じました。
家長が子どもたちを祝福するという時に、祈りもせずに、事を運んでいくのはどうかと思いますし、リベカも、この時、先ずは祈ればよかったのですが、そのようにしたとは書かれていません。

 リベカの策略とそれに従ったヤコブの言動が創世記275-27に次のように記されています。
“5
リベカは、イサクがその子エサウに話しているのを聞いていた。それで、エサウが獲物をしとめて父のところに持って来ようと野に出かけたとき、6 リベカは息子のヤコブに言った。
「今私は、父上があなたの兄エサウにこう言っておられるのを聞きました。
7
『獲物を捕って来て、私においしい料理を作ってくれ。食べて、死ぬ前に、主〔ヤハウェ(筆者挿入)〕の前でおまえを祝福しよう。』
8
さあ今、子よ、私があなたに命じることを、よく聞きなさい。9 さあ、群れのところに行って、そこから最上の子やぎを二匹取って私のところに来なさい。私はそれで、あなたの父上の好きな、おいしい料理を作りましょう。10 あなたが父上のところに持って行けば、食べて、死ぬ前にあなたを祝福してくださるでしょう。」
11
ヤコブは母リベカに言った。
「でも、兄さんのエサウは毛深い人なのに、私の肌は滑らかです。12 もしかすると父上は私にさわって、私にからかわれたと思うでしょう。私は祝福どころか、のろいをこの身に招くことになります。」
13
母は彼に言った。
「子よ、あなたへののろいは私の身にあるように。ただ私の言うことをよく聞いて、行って子やぎを取って来なさい。」
14
それでヤコブは行って、取って母のところに持って来た。
母は、父の好む、おいしい料理を作った。15 それからリベカは、家の中で自分の手もとにあった、上の息子エサウの衣を取って来て、それを下の息子ヤコブに着せ、16 また、子やぎの毛皮を、彼の両腕と、首の滑らかなところに巻き付けた。17 そうして、自分が作ったおいしい料理とパンを、息子ヤコブの手に渡した。
18
ヤコブは父のところに行き、「お父さん」と言った。
イサクは「おお。おまえはだれかね、わが子よ」と尋ねた。
19
ヤコブは父に、「長男のエサウです。私はお父さんが言われたとおりにしました。どうぞ、起きて座り、私の獲物を召し上がってください。そうして、自ら私を祝福してください」と答えた。
20
イサクは、その子に言った。「どうして、こんなに早く見つけることができたのかね、わが子よ。」
彼は答えた。「あなたの神、主〔ヤハウェ(筆者挿入)〕が私のために、そうしてくださったのです。」
21
そこでイサクはヤコブに言った。
「近くに寄ってくれ。わが子よ。おまえが本当にわが子エサウなのかどうか、私はおまえにさわってみたい。」
22
ヤコブが父イサクに近寄ると、イサクは彼にさわり、そして言った。
「声はヤコブの声だが、手はエサウの手だ。」
23
ヤコブの手が、兄エサウの手のように毛深かったので、イサクには見分けがつかなかった。
それでイサクは彼を祝福しようとして、
24
「本当におまえは、わが子エサウだね」と言った。
するとヤコブは答えた。「そうです。」
25
そこでイサクは言った。
「私のところに持って来なさい。わが子の獲物を食べたい。そうして私自ら、おまえを祝福しよう。」
そこでヤコブが持って来ると、イサクはそれを食べた。またぶどう酒を持って来ると、それも飲んだ。
26
父イサクはヤコブに、
「近寄って私に口づけしてくれ、わが子よ」と言ったので、
27
ヤコブは近づいて、彼に口づけした。2017)とあります。

 イサクもリベカもヤハウェ(主)に祈ることをせず、リベカとヤコブの嘘にうそを重ねた策略によって、イサクは騙され、イサクはヤコブを祝福するのです。
創世記2726-30には次のように記されています。
“26
父イサクはヤコブに、「近寄って私に口づけしてくれ、わが子よ」と言ったので、27 ヤコブは近づいて、彼に口づけした。
イサクはヤコブの衣の香りを嗅ぎ、彼を祝福して言った。
「ああ、わが子の香り。主〔ヤハウェ(筆者挿入)〕が祝福された野の香りのようだ。
28
神がおまえに天の露と地の肥沃、豊かな穀物と新しいぶどう酒を与えてくださるように。
29
諸国の民がおまえに仕え、もろもろの国民がおまえを伏し拝むように。おまえは兄弟たちの主となり、おまえの母の子がおまえを伏し拝むように。おまえを呪う者がのろわれ、おまえを祝福する者が祝福されるように。」
30
イサクがヤコブを祝福し終わり、ヤコブが父イサクの前から出て行くとすぐに、兄のエサウが猟から戻って来た。2017)とあります。

<お祈り>
天のお父様。
あなたの御名を賛美します。
ことを行う前には必ず祈ることの重要性を教えられます。
急ぐ事案を前にしてもまずは祈ってことに臨む者であらせてください。
私たちの主キリスト・イエス様の御名で祈ります。アーメン。

2022年2月 3日 (木)

愛に生きる必要

 マタイ521-26には次のように記されています。
“21
昔の人々に対して、『殺してはならない。人を殺す者はさばきを受けなければならない』と言われていたのを、あなたがたは聞いています。
22
しかし、わたしはあなたがたに言います。兄弟に対して怒る者は、だれでもさばきを受けなければなりません。兄弟に『ばか者』と言う者は最高法院〔「サンヘドリン」(筆者挿入)〕でさばかれます。『愚か者』と言う者は火の燃えるゲヘナに投げ込まれます。
23
ですから、祭壇の上にささげ物を献げようとしているときに、兄弟が自分を恨んでいることを思い出したなら、
24
ささげ物はそこに、祭壇の前に置き、行って、まずあなたの兄弟と仲直りをしなさい。それから戻って、そのささげ物を献げなさい。
25
あなたを訴える人とは、一緒に行く途中で早く和解しなさい。そうでないと、訴える人はあなたを裁判官に引き渡し、裁判官は下役に引き渡し、あなたは牢に投げ込まれることになります。
26
まことに、あなたに言います。最後の一コドラントを支払うまで、そこから決して出ることはできません。2017)とあります。

 21節には、殺してはならない。人を殺す者はさばきを受けなければならない』と言われていたのを、あなたがたは聞いています。と記されています。
このことはこの世の法律でも同じでしょう。

 22節には、“しかし、わたしはあなたがたに言います。兄弟に対して怒る者は、だれでもさばきを受けなければなりません。兄弟に『ばか者』と言う者は最高法院でさばかれます。『愚か者』と言う者は火の燃えるゲヘナに投げ込まれます。”とあります。
 ここでは、「兄弟に対して」とイエス様は語られました。
「ばか者」と訳されている語の原語は「ラカ」で、空虚な人、無意味な人、価値のない人の意があります。
「愚か」と訳されている語の原語は「モロス」で、鈍い、動作がのろい、鈍感な、頭の回転が遅い、ばか、等の意があります。

 山上の垂訓は、イエス様がこの世の国のことではなく、神の王国に関する事柄or生き方を教えているように思われます。
その観点からすると、「兄弟に対して怒る者」、「兄弟に対してばか者(価値がない者)と言う者」、「兄弟に対して愚か者(鈍い者、動作がのろい者)と言う者」は、裁きを受けるということです。
ここでいう「兄弟」とは、主に在る兄弟姉妹のことであろうと思います。
主なる神様が、それらの兄弟姉妹を誕生させたのです。兄弟姉妹は神の子どもであり、神が父であり、この様な言葉を兄弟に投げつけるのは、神を冒瀆していることになります。
イエス様は、十字架にかかられる前の最後の晩餐の席上で、「わたしはあなたがたに新しい戒めを与えます。互いに愛し合いなさい。わたしがあなたがたを愛したように、あなたがたも互いに愛し合いなさい。」(ヨハネ13342017)と語られました。

 今の世の中は能力主義です。
しかし、神の王国では、いくら能力があっても愛がなければ、主に評価されないばかりか、矯正されます。
神の王国は、この世とは価値観が異なるのです。
かつての私は、この世の価値観のみで生きてきました。
それ故、価値観を大転換させられました。即ち矯正されたのです。

 主に在る兄弟姉妹は極めて大切です。
神の子どもであり、永遠の神の家族であり、キリスト者の総体はキリストの花嫁です。
 1コリント131-3には次のように記されています。
“1
たとえ私が人の異言や御使いの異言で話しても、愛がなければ、騒がしいどらや、うるさいシンバルと同じです
2
たとえ私が預言の賜物を持ち、あらゆる奥義とあらゆる知識に通じていても、たとえ山を動かすほどの完全な信仰を持っていても、愛がないなら、私は無に等しいのです
3
たとえ私が持っている物のすべてを分け与えても、たとえ私のからだを引き渡して誇ることになっても、愛がなければ、何の役にも立ちません2017)とあります。

 キリスト者にとっての最高法院とは、キリストの裁きの座(2コリント510)でしょう。
しかし愛に満ちたイエス様は、地上で生活している間に、神の王国にそぐわないところを指摘し矯正してくださるのです。主に罪をしめされたら、その罪を主に申し上げ、きよめていただくと良いのです(1ヨハネ19)。自分の力で良くなろうとしてもそうたやすいことではありません。主は全能の神ですから、私たちを変えることができるのです。

 罪を持ち続けていると苦しいものです。
山上の垂訓は、当時のユダヤ人たちにわかるように話した話です。
とは言え、その本質は変わりません。
しかし、罪を聖霊様に指摘され続けたとしたら、その人の心は、ゲヘナの火に投げ込まれているように感じることでしょう。
 
 26節には、まことに、あなたに言います。最後の一コドラントを支払うまで、そこから決して出ることはできません。とあります。
すべての罪を主に赦しきよめていただく必要があるのです。
神の法廷においては、イエス様を信じた人の罪は赦され、きよめられています(ヘブル1010,12-14)が、それは法的な事柄です。主は、実質的にも聖くしようとされます。
1
ペテロ115.16に、・・、あなたがたを召された聖なる方に倣い、あなたがた自身、生活のすべてにおいて聖なる者となりなさい。「あなたがたは聖なる者でなければならない。わたしが聖だからである」と書いてあるからです。2017)と記されている通りです。

 自分から罪を捜し回る必要はありません。
日々、御言葉に触れていれば、聖霊様が示されます。
また、日常生活を送っている中で、聖霊様は示してくださいます。
他者の言葉を通して示して頂ける場合もあります。
その都度、罪を告白し、主の血潮を仰ぎ、そして主に感謝しましょう。

<お祈り>
天のお父様。
あなたの御名を賛美します。
罪を示されたときには、すぐにそれを告白し、主に変えていただき、主と共に歩み続けることができますよう祝福してください。
愛に満ち溢れた私たちの主キリスト・イエス様の御名で祈ります。アーメン。
・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・
1
コリント134-8a
“4
愛は寛容であり、愛は親切です。また人をねたみません。愛は自慢せず、高慢になりません。5 礼儀に反することをせず、自分の利益を求めず、苛立たず、人がした悪を心に留めず、6 不正を喜ばずに、真理を喜びます。7 すべてを耐え〔あるいは「おおい」(欄外注)〕、すべてを信じ、すべてを望み、すべてを忍びます。
8
愛は決して絶えることがありません。2017

2022年2月 2日 (水)

主の憎むものと主に喜ばれる歩み

 箴言616-23には次のように記されています。
“16
主〔ヤハウェ(筆者挿入)〕の憎むものが六つある。いや、主ご自身が忌み嫌うものが七つある。
17
高ぶる目、偽りの舌、咎なき者の血を流す手、18 邪悪な計画をめぐらす心、悪へと急ぎ走る足、19 まやかしを吹聴する偽りの証人、兄弟の間に争いを引き起こす者。
20
わが子よ、あなたの父の命令を守れ。あなたの母の教えを捨ててはならない。
21
それをいつも心に結び、首に結び付けよ。
22
あなたが歩くときには、それがあなたを導き、寝ているときには、あなたを見守り、目覚めるときには、あなたに話しかける。
23
命令はともしび、おしえは光、訓戒のための叱責は、いのちの道であるからだ。2017)とあります。

 この箇所に記されている主の憎むものを箇条書きにすると、
1.高ぶる目:高ぶる目は、高慢の思いから出て来ます。神であるヤハウェ(主)に対して高慢であることが高慢の本質であると考えます。
ヤハウェ(主)に対して、謙遜であるということは、神ヤハウェ(主)は、人を含めた万物の創造者であられるというところから来ると思います。そして、新約時代やキリストの千年王国時代において、天地の主権者として父なる神に任命されているのは、キリスト・イエス様であるということです。ですから、キリスト・イエス様の御言葉に従う人は神に対して謙遜であり、人に対して愛をもって接します。
 律法の根底は、神を愛し、隣人を愛することにある、と、イエス様が教えてくださっておられるのですから(マタイ2236-40)。

2.偽りの舌:うそをつくことです。うそにもよい嘘があるのだということを、日本人は良く言います(「日本人は」と書いたのは私が外国のことを良く知らないからです)。
しかし、イエス様についてペテロは、「この方は、罪を犯したことがなく、その口には偽りがなかった。」(新共同訳)と記しています。
私たち人間は、罪(罪の性質)をもって生まれていますから、誰でもうそをつくのでしょう。自己保身のために、自己利益のために、別の言い方をすれば、怒られないために、非難されないために、その場をうまく取り持つために、・・・・、等々と書いて行くことができます。
恐ろしい聖句があります。
黙示録218には、“臆病な者、不信仰な者、忌まわしい者、人を殺す者、淫らなことを行う者、魔術を行う者、偶像を拝む者、すべて偽りを言う者たちが受ける分は、火と硫黄の燃える池の中にある。これが第二の死である。”(2017)と記されています。
 キリスト者は、イエス様がその罪の罰をも身代わりに十字架上で受けてもらった人たちです。
なんと幸いなことよ、イエス・キリスト様を信じた人は。ということになります。

3.咎なき者の血を流す手:人殺し、のことです。
イエス様は次のようにも言われました。
「あなたがたの教えでは、『人を殺した者は、死刑に処す』とあります。しかし、わたしはさらにこうつけ加えましょう。人に腹を立てるなら、たとえ相手が自分の家族であっても、裁判にかけられます。人をばか呼ばわりするなら裁判所に引っぱり出されます。人をのろったりするなら、地獄の火に投げ込まれます。」(マタイ521,22・リビングバイブル)と記されています。
この罪も、イエス様は身代わりに負ってくださったのです。

4.邪悪な計画をめぐらす心:行為としてまだ現れてはいませんが、「邪悪な計画をめぐらす」というのは、その思いの中には愛のかけらもないのです。悪しき行為に及ばなくても心の中でそのように活動していれば、主はそれを読み取るのです。
表面に表れていない罪も、すぐに1ヨハネ19の聖句を自分に適用することが大切であることを覚えます。それは、御父との交わりをいつも豊かに持つためです(マタイ614.15参照応用)。
1
ヨハネ19には、“もし、わたしたちが自分の罪を 告白するなら、真実で正しい方である神は、わたしたちの罪を赦し、あらゆる不義からわたしたちを清めてくださいます。”(フランシスコ会訳)と記されています。

5.悪へと急ぎ走る足:自制心が欠如しているのです。霊or御霊の実の中に自制があります(ガラテヤ523)。

6.まやかしを吹聴する偽りの証人:このことが悪であることを誰でも知っていることと思いますが、悪に完全に染まっている人は、何とも思わないようです。
聖書には、実話として「ナボト(ナボテ)のぶどう畑」の話が記されています(1列王記211-16)。
イエス様は、サタン(悪魔)について、「悪魔は初めから人殺しで、真理に立っていません。彼のうちには真理がないからです。悪魔は、偽りを言うとき、自分の本性から話しますなぜなら彼は偽り者、また偽りの父だからです。」(ヨハネ8442017)と語られました。

7.兄弟の間に争いを引き起こす者:血肉の兄弟のことを思い浮かべる人が多いかもしれません。その間柄においても争いを引き起こしてはいけませんが、それ以上に、永遠の家族である神の家族の霊の兄弟の間に争いを引き起こすことは避けねばなりません。そうでないと蒔いた種を刈り取ることになります(マタイ2445-51、ガラテヤ67)。

 どの罪も、主に告白すれば、赦してもらえますし、きよめてもらえます。
有り難いことですね。
イエス様は、一体、どれだけの罪を身代わりに負って十字架上で本来ならば私たちが受けるべき罰を受けられたのでしょう。
イエス様には感謝しかないですね。

 箴言620-23には、
“20
わが子よ、あなたの父の命令を守れ。あなたの母の教えを捨ててはならない。
21
それをいつも心に結び、首に結び付けよ。
22
あなたが歩くときには、それがあなたを導き、寝ているときには、あなたを見守り、目覚めるときには、あなたに話しかける。
23
命令はともしび、おしえは光、訓戒のための叱責は、いのちの道であるからだ。とあります。

 これは旧約時代に書かれたものですが、新約時代のキリスト者にとって、「あなたの父」というのは、イエス・キリスト様の御父のことです。
即ち、私たちの霊の父です。
キリスト者には、肉の父と霊の父がいるのです。
 ヘブル125-11には次のように記されています。
“5
・・・。「わが子よ、主の訓練を軽んじてはならない。主に叱られて気落ちしてはならない。6 主はその愛する者を訓練し、受け入れるすべての子に、むちを加えられるのだから。」
7
訓練として耐え忍びなさい。神はあなたがたを子として扱っておられるのです。父が訓練しない子がいるでしょうか。
8
もしあなたがたが、すべての子が受けている訓練を受けていないとしたら、私生児であって、本当の子ではありません。
9
さらに、私たちには肉の父がいて、私たちを訓練しましたが、私たちはその父たちを尊敬していました。それなら、なおのこと、私たちは霊の父に服従して生きるべきではないでしょうか。10 肉の父はわずかの間、自分が良いと思うことにしたがって私たちを訓練しましたが、霊の父は私たちの益のために、私たちをご自分の聖さにあずからせようとして訓練されるのです11 すべての訓練は、そのときは喜ばしいものではなく、かえって苦しく思われるものですが、後になると、これによって鍛えられた人々に、義という平安の実〔義に{基づく(訳者挿入)}平和の実(岩波訳)、「義という平和の実」(フランシスコ会訳)、「義という平和に満ちた実」(新共同訳)〕を結ばせます

 イエス様は山上の垂訓(教え)の最後のまとめに次のように語られました。
24 ですから、わたしのこれらのことばを聞いて、それを行う者はみな、岩の上に自分の家を建てた賢い人にたとえることができます。
25
雨が降って洪水が押し寄せ、風が吹いてその家を襲っても、家は倒れませんでした。岩の上に土台が据えられていたからです。
26
また、わたしのこれらのことばを聞いて、それを行わない者はみな、砂の上に自分の家を建てた愚かな人にたとえることができます。
27
雨が降って洪水が押し寄せ、風が吹いてその家に打ちつけると、倒れてしまいました。しかもその倒れ方はひどいものでした。」(マタイ7章・2017)と。

<お祈り>
天のお父様。
あなたの御名を賛美します。
あなたのみ教えに従って生活することができますよう祝福してください。
私たちの主キリスト・イエス様の御名で祈ります。アーメン。

2022年2月 1日 (火)

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 詩篇12篇は、
指揮者のために。第八の調べにのせて。ダビデの賛歌。
1
主〔ヤハウェ(筆者挿入)〕よ、お救いください。
敬虔な人は後を絶ち、誠実な人は、人の子らの中から消え去りました。
2
人は互いにむなしいことを話し、へつらいの唇と、二心で話します。
3
主〔ヤハウェ(筆者挿入)〕が、へつらいの唇と傲慢の舌を、ことごとく断ち切ってくださいますように。
4
彼らはこう言っています。
「われらはこの舌で勝つことができる。この唇はわれらのものだ。だれが、われらの主人なのか。」
5
主〔ヤハウェ(筆者挿入)〕は言われます。
「苦しむ人が踏みにじられ、貧しい人が嘆くから、今、わたしは立ち上がる。わたしは彼を、その求める救いに入れよう。」
6
主〔ヤハウェ(筆者挿入)〕のことばは、混じり気のないことば。土の炉で七度試され、純化された銀。
7
主〔ヤハウェ(筆者挿入)〕、よ、あなたは彼らを守られます。今の代からとこしえまでも、彼らを保たれます。
8
人の子の間で、卑しいことがあがめられているときには、悪しき者が、いたるところで横行します。2017)と記されています。

 1節には、“主〔ヤハウェ(筆者挿入)〕よ、お救いください。
敬虔な人は後を絶ち、誠実な人は、人の子らの中から消え去りました。”(2017)とあります。

 敬虔なダビデが統治していた時代でもこのようであったのでしょうか。
それとも預言しなのでしょうか。
この詩を現代にあてはめて考えてみます。
「敬虔な人」即ち、三一の神を畏れ敬い、三一の神に信頼する人、聖書を信じる人は、確かに少ないです。
創世記11神が天と地を創造された。2017抜粋)ということを神話であるという人やこれは間違っているという人のなんと多いことでしょうか。
という私も神様が私に働いてくださる以前は、そのような不敬虔な者でした。進化論に毒されていたのです。
 進化論を信じている人やキリストの内に無い権力者が、コロサイ116天と地にあるすべてのものは、見えるものも見えないものも、王座であれ主権であれ、支配であれ権威であれ、御子にあって造られたからです。万物は御子によって造られ、御子のために造られました。2017)という聖句にふれたとしたら、信じないどころかもっとひどいことを言うことでしょう。
この聖句をそのまま信じていないところのあらゆる宗教を信じている人も同じでしょう。
ある宗教の人たちや、無神論者の権力者たちは、コロサイ116を公言する聖徒を殺すかもしれません。日本でも同じようなことが起きた時代がありました。

 1節の最後の部分と2節には、誠実な人は、人の子らの中から消え去りました。人は互いにむなしいこと〔「うそ」(第三版)、「虚偽」(口語訳)〕を話し、へつらいの唇と、二心で話します。2017)と記されています。
「むなしいこと」と訳されている語のヘブライ語原語は「シャーヴ」で、むなしいこと、虚偽、嘘、(人を傷つける)悪、・・・等の意があります。
うそをつかなかったのは、イエス様お一人です。
1
ペテロ222には、キリストは罪を犯さず、その口には偽りがなかった。(口語訳)と記されています。
人がついた最初のむなしい言葉は、アダムの自己保身からくる責任転嫁の言葉でした。
アダムは、「私のそばにいるようにとあなたが与えてくださったこの女が、あの木から取って私にくれたので、私は食べたのです。」(創世記3122017)と語り、続いてエバも「蛇が私を惑わしたのです。それで私は食べました。」(創世記3132017)と語ったのです。
神様は、「あなたは園のどの木からでも思いのまま食べてよい。しかし、善悪の知識の木からは、食べてはならない。その木から食べるとき、あなたは必ず死ぬ。」(創世記216.172017)と語られたのです。
アダムは自己意志で、食べない、という選択もできたのですが、神様の御言葉を守れなかったとき、自己保身から責任転嫁をしたのです。
アダムの堕罪により、アダムの子孫、すなわち全人類は、罪の性質をもって誕生することになりました(ローマ512、詩篇515、ローマ714-23)。

 3節には、主〔ヤハウェ(筆者挿入)〕が、へつらいの唇と傲慢の舌を、ことごとく断ち切ってくださいますように。2017)とあります。
自分よりも強い人、何かが優れている人に対しては、へつらい、自分よりも弱い人、何かが劣っている人には、傲慢、になるという人々が、いることを誰でも知っているでしょう。
へつらう代わりに反逆するというタイプの人たちもいます。

 4節には、「だれがわれらの主人なのか。」(2017)とあります。
キリスト者は、私の主人はイエス様です、と言うでしょう(ローマ109)。
無神論者の人は、私の主人は私だ、と言うでしょう。そして、その極致に至れば、世界は、私のためにある、ということになるでしょう。

 8節には、人の子の間で、卑しいことがあがめられているときには、
悪しき者が、いたるところで横行します。2017)とあります。
「卑しいこと」と訳されている語のヘブライ語原語は「ズルート」で、非常に不快な、ひどく悪い、不道徳な、卑劣な、・・等の意があります。
「卑しいこと」「不道徳なこと」が、あがめられているときには、悪しき者が、いたるところで横行するのです。

 しかしまことの神、すなわち永遠にして自存であり、万物の創造者であられる神のことばを信じる者、信じている者は幸いです。
6.7
節には、「主〔ヤハウェ(筆者挿入)〕のことばは、混じり気のないことば。土の炉で七度試され、純化された銀。主〔ヤハウェ(筆者挿入)〕、よ、あなたは彼らを守られます。今の代からとこしえまでも、彼らを保たれます。」(2017)と記されています。

<お祈り>
天のお父様。
あなたの御名を賛美します。
あなたを信じる者、あなたの御言葉を信じる者としてくださいましたことを感謝します。
常にあなたの御言葉に信頼して歩み続けることができますよう祝福してください。
私たちの主キリスト・イエス様の御名で祈ります。アーメン。

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2022年1月31日 (月)

ヤハウェ(主)に信頼して争いを避けるイサク

 創世記26章ら学びます。
 飢饉が起きたとき、イサクはヤハウェ(主)から、「エジプトへは下ってはならない。わたしがあなたに告げる地に住みなさい。あなたはこの地〔ペリシテ人の王アビメレクが支配していたゲラルの地{1節}(筆者挿入)〕に寄留しなさい。わたしはあなたとともにいて、あなたを祝福する。」(2,32017)と言われました。

 ヤハウェ(主)の御告げは果たされ、12,13節には、イサクはその地に種を蒔き、その年に百倍の収穫を見た。主は彼を祝福された。こうして、この人は富み、ますます栄えて、非常に裕福になった。2017)と記されています。

 成功すれば妬まれるのは世の常です。それは、アダムの末裔である人類が、生まれながらに罪の性質を持っているからです。

 イサクは、ペリシテ人に妬まれて嫌がらせを受けました。
14-16
節には、
彼〔イサク(筆者挿入)〕が羊の群れや牛の群れ、それに多くのしもべを持つようになったので、ペリシテ人は彼をねたんだ。
それでペリシテ人は、イサクの父アブラハムの時代に父のしもべたちが掘った井戸を、すべてふさいで土で満たした。
アビメレクはイサクに言った。
「さあ、われわれのところから出て行ってほしい。われわれより、はるかに強くなったから。」2017)と記されています。

 イサクが、もし激しやすい人であったならば、ゲラルのペリシテ人の王アビメレクと戦ったことでしょう。イサクは、ヤハウェ(主)と交わりを持つことが出来、ヤハウェ(主)の御業をも体験し、ヤハウェ(主)に期待する人でありました。
イサクは、今まで暮らしていた土地から出て行き、他の地に住んだのです。
 17-19節には、
イサクはそこを去り、ゲラルの谷間に天幕を張って、そこに住んだ。イサクは、彼の父アブラハムの時代に掘られて、アブラハムの死後にペリシテ人がふさいだ井戸を掘り返した。イサクは、それらに父がつけていた名と同じ名をつけた。イサクのしもべたちがその谷間を掘っているとき、そこに湧き水の井戸を見つけた。2017)と記されています。

 湧き水の井戸を見つけたとき、ゲラルの羊飼いとイサクの羊飼いの間でトラブルが起こりました。ゲラルの羊飼いたちは、兎に角イサクの集団を追い出したかったのでしょう。
 19-21節には、イサクのしもべたちがその谷間を掘っているとき、そこに湧き水の井戸を見つけた。
ゲラルの羊飼いたちは「この水はわれわれのものだ」と言って、イサクの羊飼いたちと争った。
それで、イサクはその井戸の名をエセク〔衝突、争い、喧嘩等の意があります(筆者挿入)〕と呼んだ。彼らがイサクと争ったからである。しもべたちは、もう一つの井戸を掘った。それについても彼らが争ったので、その名をシテナ〔反対、敵対、対立等の意があります(筆者挿入)〕と呼んだ。2017)と記されています。

 イザクの集団は、ペリシテ人の王アビメレクから住んでいた地を追われ、他の地で井戸を掘って水を見つけると、また追われること2回、それでもイサクは争うことなく(イサクのしもべは争いましたが)、他の地に移ったのでした。

 22節は次のように記しています。
イサクはそこから移って、もう一つの井戸を掘った。その井戸については争いがなかったので、その名をレホボテ〔広い場所の意(筆者挿入)〕と呼んだ。そして彼は言った。「今や、主は私たちに広い所を与えて、この地で私たちが増えるようにしてくださった。」2017)と。

 イサクは、今や、主は私たちに広い所を与えて、この地で私たちが増えるようにしてくださった。」と述べています。
イサクは、主に期待しつつ、主の御旨を推し量りつつ、レホボテと名づけた地まで来たのです。
イサクは、これらの事をヤハウェ(主)の摂理であると考えていたのではないかと思います。
即ち、これまで嫌がらせを受け、追われ追われてきたけれど、それ故にレホボテ(広い所)にたどり着いたのです。

 ヘブル1214には、すべての人との平和を追い求め、また、聖さを追い求めなさい。聖さがなければ、だれも主を見ることができません。2017)と記されています。
この箇所をリビングバイブルは、争いを避け、きよい生活を追い求めなさい。きよくない人は主を見ることができないからです。と訳しています。
 ローマ1218には、自分に関することについては、できる限り、すべての人と平和を保ちなさい。2017)と記され、
この箇所をフランシスコ会訳は、できることなら、あなた方の力の及ぶかぎり、すべての人と平和に暮らしなさい。と訳しています。

 イサクは、自分に関する限り、ヤハウェ(主)の約束の御言葉に信頼し、ヤハウェ(主)の経綸を信じ、争うことなく生活していきました。
ヤハウェ(主)の約束の御言葉は、創世記261-5に次のようにありました。
“1
さて、アブラハムの時代にあった先の飢饉とは別に、この国にまた飢饉が起こった。それでイサクは、ゲラルのペリシテ人の王アビメレクのもとへ行った。
2
主〔ヤハウェ(筆者挿入)〕はイサクに現れて言われた。
「エジプトへは下ってはならない。わたしがあなたに告げる地に住みなさい。
3
あなたはこの地に寄留しなさい。わたしはあなたとともにいて、あなたを祝福する。あなたとあなたの子孫に、わたしがこれらの国々をすべて与える。こうしてわたしは、あなたの父アブラハムに誓った誓いを果たす。
4
そしてわたしは、あなたの子孫を空の星のように増し加え、あなたの子孫に、これらの国々をみな与える。あなたの子孫〔この「子孫」はキリストのことでしょう(筆者挿入)〕によって、地のすべての国々は祝福を受けるようになる。
5
これは、アブラハムがわたしの声に聞き従い、わたしの命令と掟とおしえを守って、わたしへの務めを果たしたからである。」2017)と記されていました。

 イサクが、ヤハウェ(主)の約束の御言葉に信頼し、すなわちヤハウェ(主)に信頼し、ヤハウェ(主)の摂理を思いめぐらし、自分に関する限り平和に暮らした結果、どの様なことが起こったでしょうか?

 26-33節には次のように記されています。
“26
さて、アビメレクがゲラルからイサクのところにやって来た。友人のアフザテと、その軍の長ピコルも一緒であった。
27
イサクは彼らに言った。
「なぜ、あなたがたは私のところに来たのですか。私を憎んで、自分たちのところから私を追い出したのに。」
28
彼ら〔アビメレクたち(筆者挿入)〕は言った。
「私たちは、主〔ヤハウェ(筆者挿入)〕があなたとともにおられることを確かに見ました。ですから、こう言います。どうか私たちの間で、私たちとあなたとの間で、誓いを立ててください。あなたと盟約を結びたいのです。29 私たちがあなたに手出しをせず、ただ良いことだけをして、平和のうちにあなたを送り出したように〔実際は、27節のイサクの言葉の通りです(筆者挿入)〕、あなたも私たちに害を加えないという盟約です。あなたは今、主〔ヤハウェ(筆者挿入)〕に祝福されています。」
30
そこでイサクは彼らのために宴会を催し、食べたり飲んだりした。
31
翌朝早く、両者は互いに誓いを交わした。イサクは彼らを送り出し、彼らは平和のうちに彼のところから去って行った。
32
ちょうどその日、イサクのしもべたちが帰って来て、自分たちが掘り当てた井戸のことについて告げた。
「私どもは水を見つけました。」
33
そこでイサクは、その井戸をシブア〔7、誓いの意。(筆者挿入)〕と呼んだ。それゆえ、その町の名は、今日に至るまで、ベエル・シェバ〔誓いの井戸or7つの井戸(筆者挿入)〕という。2017)とあります。

<お祈り>
天のお父様。
あなたの御名を賛美します。
イサクのように、あなたに信頼し、自分に関する限り平和を保ち、あなたが御業を行われることを期待しながら前進していくことができますように。
私たちを常に愛してくださっておられる私たちの主キリスト・イエス様の御名で祈ります。アーメン。

2022年1月30日 (日)

天の国に入れる義とは

 マタイ5:20を、
 2017は、「わたしはあなたがたに言います。あなたがたの義が、律法学者やパリサイ人の義にまさっていなければ、あなたがたは決して天の御国に入れません。」と訳し、
 新共同訳は、「言っておくが、あなたがたの義が律法学者やファリサイ派の人々の義にまさっていなければ、あなたがたは決して天の国に入ることができない。」と訳し、
 リビングバイブルは、「よく聞きなさい。パリサイ人や、ユダヤ人の指導者たちは、神のおきてを守っているのは自分たちだと言いはります。だが、彼ら以上に正しくなければ天国には入れません。」と訳しています。

 パリサイ派について聖書辞典は詳しく述べていますが、その中から、今日の箇所に関係する文章を転記します。
“パリサイ派の最大の特徴はその厳格な律法主義にある。彼らは律法を厳格に解釈し、それをできるだけ忠実に実行しようとした(ヨセフォス『ユダヤ戦記』1:5:2,2:8:14,『自伝』38,『ユダヤ古代誌』17:2:4)。彼らの律法解釈はやがて複雑な体系となり、「父祖の伝承」として口伝を形成するようになる。反対者たちは、これを「律法に垣根を巡らす者」として非難した。彼らは儀式律法的なきよめをさまざまな形で実行した(マルコ7:3‐4)。彼らは、このような儀式的きよめの律法を守らない者を「地の民」(アム・ハアレツ)と呼んで軽蔑した。新約時代のユダヤ教の中には、エッセネ派やクムラン宗団のような厳格派がほかにも存在したが、主イエスの宣教において最大の敵となったのはこのパリサイ派の律法主義であった(マタイ23:25)。”(聖書辞典)と述べています。

 律法学者(イエス様の公生涯当時の律法学者)について聖書辞典の中から、ピックアップして下記します。
“新約聖書の中に現れる律法学者(〈ギ〉グラムマテュース)は多くの場合、祭司長やパリサイ人と並んで記されている(マタイ12:38,15:1,マルコ14:53)。当時のユダヤ人社会は、祭司長の属するサドカイ人と、律法学者、パリサイ人によって指導されていた。イスラエルの人々は律法学者の支配的な影響により多かれ少なかれ律法を知るようになった。彼らは、学校やシナゴーグ(会堂)、またそれぞれの家庭で子弟を教育した。それはイスラエル人がみな律法にかなう者となるためであった。彼らのこうした努力によって、ユダヤ人社会においては、一般の労働者に至るまで律法を知るようになり、またそれを実行した。ユダヤ人の宗教的生活は、こうした、伝統を守り先祖の言い伝えに熱心な律法学者の働きに負うところが大きい。/律法学者はパリサイ派に属するようになった。こうして律法学者は律法を解釈し、教え、民衆に生活の規範を与えたが、イエスは律法学者やパリサイ人をきびしく告発し、彼らを公然と非難した。彼らが律法の真意を見失っていたからである(ルカ6:6‐11等).”(聖書辞典)とあります。

 マタイ5:20には、「あなたがたの義が、律法学者やパリサイ人の義にまさっていなければ、あなたがたは決して天の御国に入れません。」というイエス様の御言葉があります。
パリサイ人も、律法学者も一生懸命であったことが分かります。
しかし、的外れであったのです。

 律法によって義とされるためには、すべての律法を一つも漏らすことなく行う必要があります。
ヤコブ2:10には、「律法全体を守っても、一つの点で過ちを犯すなら、その人はすべてについて責任を問われるからです。」(2017)と記されています。
パウロのが、自分は律法によっては義とされない、と悟ったのは、十のことば(十戒)の最後の箇所でした。
パウロは、“律法によらなければ、私は罪を知ることはなかったでしょう。実際、律法が「隣人のものを欲してはならない」と言わなければ、私は欲望を知らなかったでしょう。しかし、罪は戒めによって機会をとらえ、私のうちにあらゆる欲望を引き起こしました。”(ローマ7:7,8抜粋・2017)と述べています。
 パウロの証しに述べられている「罪」について:
この箇所の「罪」と訳されている語のギリシア語原語は「ハマルティア」で、この箇所は単数形で書かれていますから、「罪の性質」or「生まれながらに持っている罪を犯す性質」の意のことだろうと思います。人が犯す個々の罪は一つではありません。1コリント6:18の「人の犯す罪は」の「罪」について、NIVでは、“sins”となっています。

 他人の才能を羨んだり、他人の容姿を羨んだり、他人の家庭を羨んだり、・・・を羨むことは、それを欲しがっているという心が存在しているのではないかと思います。

 それ故、「義人はいない。一人もいない。」とパウロは述べたのです(ローマ3:10)。
これは、キリストの内にないところの生まれながらの人間のことを言っています。

 信仰による義、
信仰による不義、
ということも考える必要があります。

 信仰による不義、というのは、信じる対象がイエス・キリスト様ではない場合です。
ペテロが、大祭司アンナス、カヤパ、ヨハネ、アレクサンドロと、大祭司の一族全員、及び民の指導者たち、長老たち、律法学者たちの面前で、聖霊に満たされて語った内容が次のように記されています。
「あなたがたが十字架につけ、神が死者の中からよみがえらせたナザレ人イエス・キリスト・・・/『あなたがた家を建てる者たち〔ユダヤ人たちの大多数(筆者挿入)〕に捨てられた石、それが要の石となった』〔詩篇118:22の預言(筆者挿入)〕というのは、この方のことです。この方以外には、だれによっても救いはありません。天の下でこの御名〔イエス・キリストの名(筆者挿入)〕のほかに、私たちが救われるべき名は人間に与えられていないからです。」(使徒4:10-12抜粋・2017)とあります。

 結局、イエス・キリスト様を信じる(心に受け入れる)以外に、万物の根源であられるところの神に認められる義とされる方法はないのです。

 パウロは次のように記しています。
“21 ところが今や、律法とは関係なく、しかも律法と預言者によって立証されて、神の義が示されました。
22 すなわち、イエス・キリストを信じることにより、信じる者すべてに与えられる神の義です。そこには何の差別もありません。
23 人は皆、罪を犯して神の栄光を受けられなくなっていますが、
24 ただキリスト・イエスによる贖い(あがない)の業を通して、神の恵みにより無償で義とされるのです。
25 神はこのキリストを立て、その血によって信じる者のために罪を償う(つぐなう)供え物となさいました。それは、今まで人が犯した罪を見逃して、神の義をお示しになるためです。
26 このように神は忍耐してこられたが、今この時に義を示されたのは、御自分が正しい方であることを明らかにし、イエスを信じる者を義となさるためです。”(ローマ3章・新共同訳))

 イエス・キリスト様を信じたor信じさせて頂けただけで、天地万物を創造された神様は、「あなたは正しい者である」と言ってくださるのです。
それはイエス様のおかげです。
パウロは、イエス・キリストの贖いの故である、と教えてくれていますが、
使徒ペテロは、「キリストは自ら十字架の上で、私たちの罪をその身に負われた。」(1ペテロ2:24a・2017)と教えてくれています。
イエス様が十字架上で為されたことは、それ以外の内容も含まれていますが今日の聖書箇所の範囲ではないので割愛します。

 父なる神様は、イエス・キリスト様を信じた者をイエス・キリスト様の内に置かれました。そして、キリストが私たちの義となってくださいました。
1コリント1:30は次のように記しています。
“あなたがたがキリスト・イエスにある〔you are in Christ Jesus(NIV)〕のは、神によるのです。キリストは、私たちにとって神の知恵となり、義と聖と贖いとなられたのです。”(聖書協会共同訳)とあります。

 イエス・キリスト様を信じるという信仰の他に、天の国に入る方法はないのです。
それが聖書の教えです。
イエス様は、「わたしが道であり、真理であり、いのちなのです。わたしを通してでなければ、だれも父のみもとに行くことはできません。」(ヨハネ14:6・2017)と教えてくださいました。

<お祈り>
天のお父様。
あなたの御名を賛美します。
イエス・キリスト様を信じることを得させてくださいましたことを感謝します。
あなたの御名を崇め、感謝し、私たちの主キリスト・イエス様の御名で祈ります。アーメン。

2022年1月29日 (土)

自分に与えられた分と責任

 箴言61-5には次のように記されています。
“1
わが子よ。
もし、あなたが隣人のために保証人となり、他人のために誓約をし、2 自分の口のことばによって、自分が罠にかかり、自分の口のことばによって、捕らえられたなら、
3
わが子よ、そのときにはすぐにこうして、自分を救い出せ。
あなたは隣人の手に陥ったのだから。
さあ行って、伏して隣人にしつこくせがめ。
4
あなたの目を眠らせず、そのまぶたにまどろみを与えるな。
5
自分を救い出せ。かもしかが狩人の手から逃れるように、鳥がそれを捕る者の手から逃れるように。2017)とあります。

 この箇所についてBIBLE navi は次のように記しています。
この箇所は、気前よくすることに反対しているのではなく、財政的支援を必要以上に差し出して貧しくなってしまうような無責任な行動に反対しているのである。気前良さと良い管理のバランスを保つことは重要である。神は、私たちに、友人や貧しい者たちを助けることを願っておられるが、私たちが払う賢くない出費をすべてカバーするとは約束しておられない。私たちは、自分の家族が苦しまないよう、責任をもって行動しなければならない。と。

 私の知人の話を二つします。
 ある人が、知人の連帯保証人になりました。連帯保証を頼んできた人は雲隠れし、そのために連帯保証人になった人は、家を失い、その後、仕事もできないような病気になり、その家族にも大きな負担をかけてしまった人がいます。
 その他にも、私には、連帯保証人になって土地と家を売らなければならなくなった家族の知り合いがいます。
どちらのご家族も人間社会の尺度では良い人たちですが、連帯保証人になったばっかりに、土地と家までも売らなければならなかったという悲劇を味わった人たちです。
どちらのご家族も、その後も助け合って生活していますが、年数が経てば、みな高齢になっていきます。そして体は弱って来るのです。

 現在、NHKの朝ドラの再放送(初回放送は1979年)で、「マー姉ちゃん」というのを放送しています。
原作は、漫画家長谷川町子の自伝エッセイ漫画「サザエさんのうちあけ話」です。
長谷川町子の母親は、御言葉の通りに生きていこうとする筋金入りのキリスト者ですが、朝ドラを見ている限りでは、知っている御言葉の数が少なく、聖書全体のバランスを欠いているのです。
町子の母親は、生活に困窮している人には、知人と呼べるような人ではなくても、惜しみなく金品をあげるのですが、それだけではなく生活困窮者ではなくても、何かの縁があると次々と金品をあげてしまう人なのです。
そしてある日、お金が底をついたのです。
このお金は、無くなった町子の母親はるの夫が残したものでした。
キリスト者である母親はる自身が世の中に出てかせいできたお金ではなかったのです。
この家族には、まだ女学校に行っていた三女がいました。
長女マリ子も美術学校をやめたのです。
次女のマチ子は、後にサザエさんという漫画を描きますが、15歳の時に、既に天才少女漫画家としてデビューしたのです。
キリスト者である母親はるは、常識的には、この二人がいなかったら困った状態になったことでしょう。
但し、この母親がしばしば語る聖句に、「明日のことを思い煩うなかれ」(マタイ634)というものがあったことを記しておかねばなりません。
主が、それに応えてくださった可能性があるからです。
長女マリ子は菊池寛の挿絵を書く仕事にありつけ、次女のマチ子も若くして漫画でお金を得ることができたのですから。その時のマチ子は15歳でした。
主はこの家族を守ってくださったのですが、極めて優秀な二人の娘がいなかったら、と考えるとキリスト者である母親はるは困った状態に置かれたことでしょう。三女は、女学校を止める決意をしていたのですから。

 聖書には関わりにおける優先順位が記されていると思います。
1.神様と自分
2.結婚したら、親兄弟に優先して、夫婦。
3.子供が与えられたら、夫婦と子ども。
4.自分の家族と両親
・・・
 また見落とされがちな関係に、霊の家族、すなわち神の家族というのがあります。
神の家族は、永遠の家族です。
新生したキリスト者同士の関係は永遠の家族です。
父は、「天のお父様」です。

 自分はどこまで関わることができるのか、ということを考える必要があるのだと思います。
誰もが、ジョージ・ミュラーのような信仰を主から与えられているのではないからです。
ジョージ・ミュラーとは、主に在って、孤児院を創設し、信仰によって多くの孤児たちを養い育てた人です。
私の知り合いの牧師で、信仰偉人伝は読まないようにした、という人がいます。
この牧師は、信仰偉人伝を読んだからこそ、この様に言えるのですが。
神である主は、一人一人に使命を与えてくださいますが、それぞれ異なるからです。
私は、キリスト者が信仰偉人伝を読むことをお勧めします。
但し、主の導きもないのに、信仰の偉人と言われる人たちのまねを、自分の意志や情熱のみで、そのまますることは勧めません。

 先に記したマチ子の母親はるの場合は、主がそのように導いたのかも知れませんが。
しかし、まねではいけないのです。祈って主の導きを求め、聖書の教えを大切にする必要があると思います。
「あなたもマチ子の母親はると同じようにしなさい。」と主から言われたら、そのように行うのです。

 参考成句
「あなたは心を尽くし、いのちを尽くし、知性を尽くして、あなたの神、主を愛しなさい。」(マタイ22372017

まず神の国と神の義を求めなさい。」(マタイ6332017

「男は父と母を離れ、その妻と結ばれ、ふたりは一体となるのである。」(創世記2242017

「あなたの隣人を自分自身のように愛しなさい」(マタイ22392017)―最も近い隣人は、結婚している人であれば、その伴侶者です(エペソ522,25)。そして次の隣人は、・・・。良きサマリヤ人の話にあるような状況での隣人は・・・(ルカ1030-37)、というようなことになるでしょう。

「あなたがたは、もはや他国人でも寄留者でもなく、聖徒たちと同じ国の民であり〔聖なる民に属する者(新共同訳)〕、神の家族なのです。」(エペソ2192017

「私たちは機会があるうちに、すべての人に、特に信仰の家族に善を行いましょう。」(ガラテヤ6102017

「返してもらうつもりで人に貸したとしても、あなたがたにどんな恵みがあるでしょうか。罪人たちでも、同じだけ返してもらうつもりで、罪人たちに貸しています。しかし、あなたがたは自分の敵を愛しなさい。彼らに良くしてやり、返してもらうことを考えずに貸しなさい。そうすれば、あなたがたの受ける報いは多く、あなたがたは、いと高き方の子どもになります。いと高き方は、恩知らずな者にも悪人にもあわれみ深いからです。」(ルカ634,352017
いと高き方の子どもになることは、行いではなれないのです。イエス様を信じること(心に受け入れること)によって、いと高き方の子ども、すなわち神の子どもになれます。普通は、神の子どもになれたので、恵みによって、イエス様が言われるようにできるようになるのです。
神の子どもになるためには、新生が必要です(ヨハネ33,6112)。

“3
わたしに与えられた恵みによって、あなたがた一人一人に言います。自分を過大に評価してはなりません。むしろ、神が各自に分け与えてくださった信仰の度合いに応じて慎み深く評価すべきです。
4
というのは、わたしたちの一つの体は多くの部分から成り立っていても、すべての部分が同じ働きをしていないように、5 わたしたちも数は多いが、キリストに結ばれて一つの体を形づくっており、各自は互いに部分なのです。
6
わたしたちは、与えられた恵みによって、それぞれ異なった賜物を持っていますから、
預言の賜物を受けていれば、信仰に応じて預言し、
7
奉仕の賜物を受けていれば、奉仕に専念しなさい。
また、教える人は教えに、
8
勧める人は勧めに精を出しなさい。
施しをする人は惜しまず施し、
指導する人は熱心に指導し、
慈善を行う人は快く行いなさい。(ローマ12章・新共同訳)

タラントの教え(マタイ2514-30)、ミナの教え(ルカ1912-27

<お祈り>
天のお父様。
あなたの御名を賛美します。
自分に与えられた賜物に応じて、主の助けと導きを頂きつつ励んでいくことができますように。
私たちの主キリスト・イエス様の御名で祈ります。アーメン。

2022年1月28日 (金)

苦難に対する対応とその結果

 詩篇11篇は次のように記されています。
指揮者のために。ダビデによる。
1
主〔ヤハウェ(筆者挿入)〕に私は身を避ける。どうして、あなたがたは私のたましいに言うのか。「鳥のように、自分の山に飛んで行け。
2
それ見よ、悪者どもが弓を張り、弦に矢をつがえ、暗がりで、心の直ぐな人を射抜こうとしている。
3
拠り所が壊されたら、正しい者に何ができるだろうか。」
4
主〔ヤハウェ(筆者挿入)〕は、その聖なる宮におられる。主〔ヤハウェ(筆者挿入)〕は、その王座が天にある。その目は見通し、そのまぶたは人の子らを調べる。
5
主〔ヤハウェ(筆者挿入)〕は正しい者と悪者を調べる。そのみこころは、暴虐を好む者を憎む。
6
主は悪者どもの上に網を下す。火と硫黄、燃える風が彼らへの杯。
7
主〔ヤハウェ(筆者挿入)〕は正しく、正義を愛される。直ぐな人は御顔を仰ぎ見る。2017)とあります。

 私たちキリスト者に対して、主イエス様は、「あなたがたには世で苦難がある。しかし、勇気を出しなさい。わたしは既に世に勝っている。」(ヨハネ1631・新共同訳)と語られたのです。
ですから私たちは、苦難を免れることは出来ません。
苦難が来るのは当たり前のことです。
何故なら、「わたしには天においても地においても、すべての権威が与えられています。」(マタイ28182017)と語られたイエス様が、私たちに襲ってくる苦難を許可しているからです。
イエス様が許可しているというのは、御父が許可しているからです。
イエス様には「天においても地においても、すべての権威が与えられています。」が御父の御旨を外れてことを行うことはないからです(ヨハネ1030)。

 主は、私たちキリスト者に、苦難を与えない、という方法ではなく、苦難を通して神の子どもとしてふさわしく整えようとなさっておられるのです。

 使徒ペテロは、「今しばらくの間、様々な試練の中で悲しまなければならないのですが、試練で試されたあなたがたの信仰は、火で精錬されてもなお朽ちていく金よりも高価であり、イエス・キリストが現れるとき、称賛と栄光と誉れをもたらします。」(1ペテロ16.7抜粋・2017)と語りました。

 パウロはローマ53-5(抜粋・2017)で次のように述べています。
「苦難さえも喜んでいます。それは、苦難が忍耐を生み出し、忍耐が練られた品性を生み出し、練られた品性が希望を生み出すと、私たちは知っているからです。この希望は失望に終わることがありません。なぜなら、私たちに与えられた聖霊によって、神の愛が私たちの心に注がれているからです。」と。

 私たちに苦難が襲ってきたとき、私たちは自分の力のみでそれに対処するのではなく、主により頼みつつ、対処していくのです。
主により頼みつつ苦難に対処することで、私たちは、主の御力、ご配慮、支え、・・・等々を体験しつつ、主の栄光を賛美しつつ、この地上生活を送って行くことができるのです。

 新約時代(新契約時代)は恵みの時代とも言われていますが、新約時代の聖徒であるキリスト者は恵まれた存在です。
それは、イエス・キリストの十字架と復活のゆえに、イエス・キリスト様を信じる者は、罪の赦しを得、義とされ、先ずは霊において新しく生まれ、永遠のいのちが与えられ、キリストの空中再臨時には霊の体を与えられるのですから。
それだけではありません。
旧約時代には無かったことですが、キリスト者は神の宮(神殿)とされているのです。
即ち、主ご自身がキリスト者一人一人の内に住んでおられるのです。
そのキリスト者たちが集まる地域教会の中において祈ることは、更に素晴らしいと感じておられる方々も多いことでしょう。キリスト者個々人に聖霊が住んでくださっておられるからです(ヨハネ1416,17,26)。
このことは、幕屋の構造で予表されていることでもあります。
幕屋の壁板は、キリスト者一人一人の予表とも言えます。
幕屋の壁板は、繋ぎ合わされるのです。
幕屋の壁板の中央には横木が通されます。
これは聖霊の予表です。
壁板は銀で出来ている台座にのせられるのです。
銀の台座とはキリストを予表しています。キリストは預言されたように(ゼカリヤ1112,13)銀貨30枚で売られ(マタイ2615)、十字架につけられたのです。

 私たちは、「自分が神の神殿であり、神の霊が自分たちの内に住んでいる」(1コリント316・新共同訳)存在なのです。

 イエス様は、「わたしはあなたがたに新しい戒めを与えます。互いに愛し合いなさい。わたしがあなたがたを愛したように、あなたがたも互いに愛し合いなさい。」(ヨハネ13342017)と語られました。
更にイエス様は、「もしわたしを愛しているなら、あなたがたはわたしの戒めを守るはずです。そしてわたしが父にお願いすると、父はもう一人の助け主をお与えくださり、その助け主がいつまでも、あなたがたとともにいるようにしてくださいます。この方は真理の御霊です。だれでもわたしを愛する人は、わたしのことばを守ります。そうすれば、わたしの父はその人を愛し、わたしたちはその人のところに来て、その人とともに住みます。」(ヨハネ1415-17,23抜粋・2017)とも語られたのです。

 今日の聖書箇所の詩篇11篇は、旧約時代の聖徒であるダビデのものです。
新約時代の聖徒は、何と恵まれているのだろうか、と思います。
ただし、旧約時代であろうとも新約時代であろうとも携挙後の艱難時代の聖徒たちであろうとも、共通しているものがあります。
それは主への信頼の必要性です。

 イエス・キリスト様を信じて、私たちキリスト者は救われ、義人とされました。
義人は神への信頼によって生きるのです。

 ローマ117には、福音には神の義が啓示されていて、信仰に始まり信仰に進ませるからです。「義人は信仰によって生きる」と書いてあるとおりです。2017)と記され、
 ヘブル1038には、「わたしの義人は信仰によって生きる。もし恐れ退くなら、わたしの心は彼を喜ばない。」(2017)と記されています。

<お祈り>
天のお父様。
あなたの御名を賛美します。
私たちがいかなる状況に置かれようとも、天においても地においても一切の権威を持っている我らの主イエス様が内に住んでくださっておられますから感謝します。
いつも主により頼みつつ歩み続ける生涯を送らせてください。
私たちの主キリスト・イエス様の御名で祈ります。アーメン。
・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・
「奥義とは、あなたがた〔私たち(筆者挿入)〕の中におられるキリスト」(コロサイ127抜粋・2017

2022年1月27日 (木)

キリストの花嫁の予表としてのリベカ

 創世記24章はアブラハムの約束の子(神が約束された子)イサクとイサクの花嫁となったリベカの話です。

 イサクの異母兄弟は、アブラハムとハガルの子のイシュマエルという兄と、アブラハムとケトラの子たち(ジムラン、ヨクシャン、メダン、ミディアン、イシュバク、シュアハ)がいましたが、神ヤハウェ(主)がアブラハムに約束された子はイサクだけでした。
イサク以外のアブラハムの子どもたちは、肉の望むところ(ヨハネ113参照)による子どもたちでした。
聖書を読んでの想像ですが、イサク以外の子どもたちは、アブラハムから妻を与えられたのではないように思います。

 イサクは自分で妻を探してきませんでした。
イサクの伴侶者について真剣に考えたのはアブラハムでした。
それは神ヤハウェ(主)からの約束の御言葉があったからでしょう(創世記177-14)。

 父なる神の御子も、自分で花嫁を探すことをしませんでした。
キリストの花嫁となる人たちは、天地創造の前に父なる神によって、選ばれていたのです。
 エフェソ(エペソ)14には、“天地創造の前に、神はわたしたちを愛して、御自分の前で聖なる者、汚れのない者にしようと、キリストにおいてお選びになりました。”(新共同訳)と記されています。
エフェソ(エペソ)14で選ばれた人たちは、キリストの花嫁であることがエフェソ(エペソ)5章より明らかであり、その箇所を5章よりピックアップして下記します。
“25
・・・キリストが教会を愛し、教会のために御自分をお与えになった・・・26 キリストがそうなさったのは、言葉を伴う水の洗いによって、教会を清めて聖なるものとし、27 しみやしわやそのたぐいのものは何一つない、聖なる、汚れのない、栄光に輝く教会を御自分の前に立たせるためでした。32 この神秘〔「秘義」(聖書協会共同訳)、「奥義」(新改訳)〕は偉大です。わたしは、キリストと教会について述べているのです。(新共同訳)と記されています。
「教会」{(ギ)エクレシア}とは、キリスト者の総体です。エクレシアとは、パウロの表現に従えば、「ご自身の血をもって買い取られた神の教会」(使徒20:28)、すなわち御子の血によって贖い出された、新しい契約の民こそ、神に召し集められた集団(聖書辞典抜粋)です。

 新生したキリスト者は皆、キリストの花嫁となるべく、御父の予知に基づいてあらかじめ選ばれたのです(1ペテロ12、ローマ830参照)。

 どの様な人を予知されたのでしょうか?
それは、福音が提示されたとき、キリストを救い主として、また主として受け入れる人を予知されたのではないかと思います。

 話を創世記24章に戻します。
アブラハムは、イサクの妻を探すために、アブラハムが信頼しているしもべをイサクの妻探しに遣わすことにしたのです。
 創世記241-8には次のように記されています。
“1
アブラハムは年を重ねて、老人になっていた。主〔ヤハウェ(筆者挿入)〕は、あらゆる面でアブラハムを祝福しておられた。
2
アブラハムは、自分の全財産を管理している、家の最年長のしもべに、こう言った。
「あなたの手を私のももの下に入れてくれ。3 私はあなたに、天の神、地の神である主〔ヤハウェ(筆者挿入)〕にかけて誓わせる。私はカナン人の間に住んではいるが、あなたは、その娘たちの中から、私の息子の妻を迎えてはならない。4 あなたは、私の国、私の親族のところに行って、私の息子イサクに妻を迎えなさい。」
5
しもべは彼〔アブラハム(筆者挿入)〕に言った。
「もしかしたら、その娘さんが、私についてこの地に来ようとしないかもしれません。その場合、ご子息をあなたの出身地へ連れて戻らなければなりませんか。」
6
アブラハムは彼に言った。
「気をつけて、息子をそこへ連れて戻ることのないようにしなさい。7 天の神、主〔ヤハウェ(筆者挿入)〕は、私の父の家、私の親族の地から私を連れ出し、私に約束して、『あなたの子孫にこの地を与える』と誓われた。その方が、あなたの前に御使いを遣わされるのだ。あなたは、そこから私の息子に妻を迎えなさい。8 もし、その娘があなたについて来ようとしないなら、あなたはこの、私との誓いから解かれる。ただ、私の息子をそこに連れて戻ることだけはしてはならない。」
9
それでしもべは、主人であるアブラハムのももの下に自分の手を入れ、このことについて彼に誓った。2017)とあります。

 ここに登場するアブラハムのしもべは、聖霊の予表でしょう。聖霊は、実際にはしもべではなく三一の神の第三位格の神ですが。

 創世記2410aには、しもべは主人のらくだの中から十頭を連れて出かけた。主人のあらゆる良い品々をその手に携えていた。2017)と記されています。
新約的に言えば、聖霊が御父から預かった贈物です。
聖霊は、父なる神の御旨の範囲内で、好む所に行くのです。
ヨハネ38に、「風は思いのままに吹く。あなたはその音を聞いても、それがどこから来て、どこへ行くかを知らない。霊から生まれた者も皆そのとおりである。」(新共同訳)というイエス様の御言葉が記されていますが、「風」及び「霊」と訳された語のギリシア語原語は「プニューマ」です。

 アブラハムのしもべは、ヤハウェ(主)に祈りをささげてから、ヤハウェ(主)の導きによって、リベカと出会います。
リベカの心からの言動に、アブラハムのしもべは、リベカこそヤハウェ(主)の御旨の人であると確信し、リベカに主人アブラハムからの贈り物を与えたのです。
その後、アブラハムのしもべは、娘の家に行くのですが、話はさらに続いていきます。この一連のお話は、創世記2411-56に記されています。
その箇所を読んでいただくと、これらの一連の出来事が、神ヤハウェ(主)の導きであることがよく分かります。
 キリスト者が救われる前に働く聖霊の働きを彷彿とさせるような内容ではないかと思います。

 ラバン(リベカの兄)とベトエル{リベカの父(47節)}は、アブラハムのしもべに、「主〔ヤハウェ(筆者挿入)〕からこのことが出たのですから、私たちはあなたに良し悪しを言うことはできません。ご覧ください。リベカはあなたの前におります。どうぞお連れください。主〔ヤハウェ(筆者挿入)〕が言われたとおりに、あなたのご主人の息子さんの妻となりますように。」(50.51)と答えました。 
アブラハムのしもべに、ラバンとリベカの母は、「娘をしばらく、十日間ほど私たちのもとにとどまらせて、その後で行かせるようにしたいのですが」と言ったのですが、
リベカは、「行きます」と言って、すぐに見たこともない夫となる人のもとへと旅立ったのでした。

 キリスト者も、イエス・キリストの福音を聞き、イエス様を肉眼で見ることなく、イエス様のもとへと行った者たちです。
イエス様は言われました。
「見ないで信じる人たちは幸いです。」(ヨハネ20292017)と。
どうして見ないで信じることができるのでしょう。
それは神の第三位格である聖霊様が働いてくださっておられるからです。
1
コリント123には、“聖霊によるのでなければ、だれも「イエスは主です」と言うことはできません。”(2017)と記されています。

<お祈り>
天のお父様。
あなたの御名を賛美します。
あなたの御計画の中にあって生かされておりますことを感謝します。
あなたの子どもとしてあなたを愛し、イエス様を主として愛する者であらせてください。
私たちの主キリスト・イエス様の御名で祈ります。アーメン。
・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・
<追記>
ベトエルについて
ベトエル (〈ヘ〉betuel) 「神の家」という意味。アブラハムの兄弟ナホルの子で、リベカとラバンの父(創世記22:2223,24:15,24,47,50,28:2)。創世記25:2028:5は彼のことをパダン・アラム在住のアラム人だと記す。創24章のイサクとリベカの結婚物語において、ベトエルは父らしい役割を何も演じていないが、これについてヨセフォスは、この時彼はすでに死んでいたからだと言う(『ユダヤ古代誌』1:16:2)。しかし創世記24:50は、明らかにベトエル生存中の出来事であることを示している。これについて、近年、ヌジ文書のトゥッピ・アハツティが光を与えた。それによると、古代フルリ人社会では、兄権制度と称すべきものがあって、兄が父に代っていっさいを取りしきることが許されていた。ラバンの言動はこれによって説明がつくかもしれない。(聖書辞典)

2022年1月26日 (水)

天地が消え去るまで律法の一点一画も決して消え去ることはない

 マタイ518.19には、
18 はっきり言っておく。すべてのことが実現し、天地が消えうせるまで、律法の文字から一点一画も消え去ることはない。
19
だから、これらの最も小さな掟を一つでも破り、そうするようにと人に教える者は、天の国で最も小さい者と呼ばれる。しかし、それを守り、そうするように教える者は、天の国で大いなる者と呼ばれる。」(新共同訳)と記されています。

 17節には、「わたしが律法や預言者を廃棄するために来た、と思ってはなりません。廃棄するためではなく成就するために来たのです。」(2017)とありました。 
18
節には、「はっきり言っておく。すべてのことが実現し、天地が消えうせるまで、律法の文字から一点一画も消え去ることはない。」(2017)と記されています。

 天地が滅び失せるまで、律法の文字から一点一画も消え去ることはない、すなわち天地が滅び失せたら律法が消えるのかも知れません。しかし、預言者の方の一部の預言は残るのです。

 天地が滅び失せるのは、キリストの千年王国終了後です。
キリストの千年王国時代の最後にサタンは牢から解放され、最後の戦争が起こりますが、神様の御介入によって、あっという間にその戦いは終わり、サタンは火と硫黄の池に投げ込まれるのです。
黙示録207-10には次のように記されています。
“7
この千年が終わると、サタン〔別名「悪魔」「大きな竜」「古い蛇」{黙示録129参照}(筆者挿入)〕はその牢から解放され、8 地上の四方にいる諸国の民、ゴグとマゴグ〔「神に従いたくないor敵対する民」のことであろうと思います(筆者挿入)〕を惑わそうとして出て行き、彼らを集めて戦わせようとする。その数は海の砂のように多い。9 彼らは地上の広い場所に攻め上って行って、聖なる者たちの陣営と、愛された都〔キリストの千年王国時代のエルサレム(筆者挿入)〕とを囲んだ。すると、天から火が下って来て、彼らを焼き尽くした。10 そして彼らを惑わした悪魔は、火と硫黄の池に投げ込まれた。そこにはあの獣と偽預言者がいる。そして、この者どもは昼も夜も世々限りなく責めさいなまれる。(新共同訳)と記されています。

 黙示録20章には、この後の節である11節に、天地が滅び失せることを、次のように記しています。
わたしはまた、大きな白い玉座と、そこに座っておられる方とを見た。天も地も、その御前から逃げて行き、行方が分からなくなった(新共同訳)とあります。
 使徒ペテロは、「主の日は、盗人のように、思いがけない時にやって来ます。その時、天は恐ろしいとどろきと共に消えうせ、天体は焼けて崩れ落ち、地と地上のすべてのものは、跡形もなく焼き滅ぼされてしまいます。」(2ペテロ310・リビングバイブル)と語っています。

 この後に神であるヤハウェ(主)は、新天新地を創造するのです。
イザヤ6517.18には次のように記されています。
“17
見よ、わたしは新しい天と新しい地を創造する。先のことは思い出されず、心に上ることもない。
18
だから、わたしが創造するものを、いついつまでも楽しみ喜べ。見よ。わたしはエルサレムを創造して喜びとし、その民を楽しみとする。2017)とあります。

 「先のことは思い出されず、心に上ることもない。」とあり、律法さえも思い出されないのです。それは必要がなくなるからでしょう。

 黙示録21:1-4には次のように記されています。
“1
また私は、新しい天と新しい地を見た。以前の天と以前の地は過ぎ去り、もはや海もない。
2
私はまた、聖なる都、新しいエルサレムが、夫のために飾られた花嫁のように整えられて、神のみもとから、天から降って来るのを見た。
3
私はまた、大きな声が御座から出て、こう言うのを聞いた。
「見よ、神の幕屋が人々とともにある。神は人々とともに住み、人々は神の民となる。神ご自身が彼らの神として、ともにおられる。4 神は彼らの目から涙をことごとくぬぐい取ってくださる。もはや死はなく、悲しみも、叫び声も、苦しみもない。以前のものが過ぎ去ったからである。」2017)とあり、
 更に、これとは別に、新天新地における聖なる都エルサレムについて、黙示録219-23には次のように記されています。
“9
また、最後の七つの災害で満ちた、あの七つの鉢を持っていた七人の御使いの一人がやって来て、私に語りかけた。
「ここに来なさい。あなたに子羊の妻である花嫁を見せましょう。」
10
そして、御使いは御霊によって私を大きな高い山に連れて行き、聖なる都エルサレムが神のみもとから、天から降って来るのを見せた。
11
都には神の栄光があった。その輝きは最高の宝石に似ていて、透き通った碧玉のようであった。
12
都には、大きな高い城壁があり、十二の門があった。門の上には十二人の御使いがいた。また、名前が刻まれていたが、それはイスラエルの子らの十二部族の名前であった。
13
東に三つの門、北に三つの門、南に三つの門、西に三つの門があった。
14
都の城壁には十二の土台石があり、それには、子羊の十二使徒の、十二の名が刻まれていた。15 また、私に語りかけた御使いは、都とその門と城壁を測るために金の測り竿を持っていた。
16
都は四角形で、長さと幅は同じである。御使いが都をその竿で測ると、一万二千スタディオンあった。長さも幅も高さも同じである〔2200kmの立方体{リビングバイブル参照}(筆者挿入)〕。
17
また城壁を測ると、百四十四ペキスあった〔城壁の厚さを測ってみると、65mありました(リビングバイブル)〕。これは人間の尺度であるが、御使いの尺度も同じであった。
18
都の城壁は碧玉で造られ、都は透き通ったガラスに似た純金でできていた。
19
都の城壁の土台石はあらゆる宝石で飾られていた。第一の土台石は碧玉、第二はサファイア、第三はめのう、第四はエメラルド、20 第五は赤縞めのう、第六は赤めのう、第七は貴かんらん石、第八は緑柱石、第九はトパーズ、第十はひすい、第十一は青玉、第十二は紫水晶であった。21 十二の門は十二の真珠であり、どの門もそれぞれ一つの真珠からできていた。都の大通りは純金で、透明なガラスのようであった。22 私は、この都の中に神殿を見なかった。全能の神である主と子羊が、都の神殿だからである。23 都は、これを照らす太陽も月も必要としない。神の栄光が都を照らし、子羊が都の明かりだからである。2017)とあります。

 花嫁は聖なる都エルサレムにいるのです。
私の想像ですが、千年王国時代は、御父の家にいるのでしょう。そこは天のエルサレムです。それは人間の肉の目では見えないものでしょう。
マタイ1343には、そのとき、正しい人たち〔キリストにある義人たち(筆者挿入)〕は彼らの父の御国で太陽のように輝きます。耳のある者は聞きなさい。2017)というイエス様の御言葉があり、
 ガラテヤ426には、天のエルサレムは、いわば自由な身の女であって、これはわたしたちの母です。(新共同訳)とあり、
リビングバイブルは、私たちの母なる都は天にあるエルサレムで、それは律法に属していません。と訳しています。

 マタイ519には、「ですから、これらの戒めの最も小さいものを一つでも破り、また破るように人々に教える者は、天の御国で最も小さい者と呼ばれます。しかし、それを行い、また行うように教える者は天の御国で偉大な者と呼ばれます。」(2017)とあります。

 イエス様を救い主、また主と信じた人、すなわちイエス様を心に受け入れた人は救いにあずかり、天の御国に入れます。
キリスト教会の歴史を読むと、信仰による救いを強調し、放縦に走る人たちもいました。
一方、信仰による救いを強調すると共に、主が聖いお方であるように、自らも主に在って聖く生きていこうとする人たちもいました。
主が望んでおられるのは後者の方でしょう。
1
ペテロ115.16には次のように記されています。
“15
むしろ、あなたがたを召された聖なる方に倣い、あなたがた自身、生活のすべてにおいて聖なる者となりなさい。16 「あなたがたは聖なる者でなければならない。わたしが聖だからである」と書いてあるからです。2017)とあります。
この聖句を肉の力で行おうとしたら破綻します。

 私たちに約束された天のエルサレム、それは御父の家なのでしょう。
イエス様は次のようにも語られました。
1 あなたがたは心を騒がせてはなりません。神を信じ、またわたしを信じなさい。
2
わたしの父の家には住む所がたくさんあります。そうでなかったら、あなたがたのために場所を用意しに行く、と言ったでしょうか。
3
わたしが行って、あなたがたに場所を用意したら、また来て、あなたがたをわたしのもとに迎えます。わたしがいるところに、あなたがたもいるようにするためです。」(ヨハネ14章・2017)と。

<お祈り>
天のお父様。
恵みの上に恵みを、更に恵みの上に恵みを、更にこれでもかというほどに恵みの上に恵みを与えてくださいますあなたの御名を賛美します。
あなたの霊に調えられつつ、地上の歩みを歩んでいく者であらせてください。
私たちの主キリスト・イエス様の御名で祈ります。アーメン。

2022年1月25日 (火)

律法を廃棄するためではなく成就するために来られたイエス様

 マタイ517には、イエス様の御言葉が次のように記されています。
2017
は、「わたしが律法や預言者を廃棄するために来た、と思ってはなりません。廃棄するためではなく成就するために来たのです。」(2017)と記し、
リビングバイブルは、「誤解してはいけません。わたしは、モーセの律法や預言者の教え(旧約聖書)を無効にするために来たのではありません。かえって、それを完成させ、ことごとく実現させるために来たのです。」と意訳しています。

 イエス様が上記のように語られた内容は、幾つかに分けて考えることができます。
1.イエス・キリスト様は、神が意図する律法を守りました。
使徒ペテロは、キリストは罪を犯したことがない、と言っています(1ペテロ222)。

2
.イエス・キリスト様は、律法を成就しました。
どのように成就したのでしょうか。
それは、私たちの罪を身代わりに負って、十字架上で律法の要求を全うしたのです。
使徒ペテロは、「キリストは自ら、十字架の上で、私たちの罪をその身に負われた。」(1ペテロ2242017)と記しています。
罪からくる報酬は死です(ローマ623)。

 旧約時代、すなわちイエス・キリスト様の贖いがまだ行われなかった時代、その時代には、罪を犯したら、罪の為のささげものをささげれば罪が赦される、と主は教えました。そのささげ物は、イエス・キリストの予表であったのです。
 レビ427-31には次のように記されています。
“27
民衆の一人が、主〔ヤハウェ(筆者挿入)〕がしてはならないと命じたことの一つでも行って、気づかずに罪に陥ってしまったが、後になって責めを覚える場合、28 または、自分が陥っていた罪が知らされた場合には、その人が陥っていた罪のために、ささげ物として傷のない雌やぎ〔雌羊の場合も可です{レビ432-35}(筆者挿入)〕を連れて来る。
29
そして、その罪のきよめのささげ物の頭に手を置き〔自分の罪を献げ物の動物に移行させる行為(筆者挿入)〕、全焼のささげ物の場所で罪のきよめのささげ物を屠る〔罪からくる報酬は死です{ローマ623}(筆者挿入)〕。
30
祭司はその血を指に付け、それを全焼のささげ物の祭壇の四隅の角に塗る。その血はすべて祭壇の土台に流す〔キリストの血はすべての罪を赦し、きよめる、ことの予表です{ヘブル922101-14}(筆者挿入)〕。
31
交わりのいけにえから取り除かれる場合と同様に、その脂肪はすべて取り除く。祭司は主〔ヤハウェ(筆者挿入)〕への芳ばしい香りとして、それを祭壇の上で焼いて煙にする。こうして祭司はその人のために宥めを行う。そして彼は赦される。2017)とあります。

 コロサイ217は、「これらは、やがて来るものの影にすぎず、実体はキリストにあります。」(新共同訳)と記しています。
リビングバイブルは、「それらは、キリストが来られる前だけに有効であった、一時的な存在にすぎないからです。つまり、キリストという本体の影でしかなかったのです。」と意訳しています。

3.イエス・キリスト様は、律法を成就し(満たし)ました。
「成就する」と訳されている語のギリシア語原語は、「プレロオー」で、その意味の中には、満たす、の意もあります。
この箇所の「満たす」は、アオリスト自制なので、十字架を指していると思います。
しかし、続く箇所(マタイ521以降)を読むと、律法の表面的な行為の奥にある心のあり方における罪を具体的に教えてくださっておられることが分かります。
更に読み進めると、律法の本質とは何であるのかということをイエス様は教えておられます。
マタイ22章には次のように記されています。
“36
「先生、律法の中でどの戒めが一番重要ですか。」
37
イエスは彼に言われた。
「『あなたは心を尽くし、いのちを尽くし、知性を尽くして、あなたの神、主を愛しなさい。』
38
これが、重要な第一の戒めです。
39
『あなたの隣人を自分自身のように愛しなさい』という第二の戒めも、それと同じように重要です。
40
この二つの戒めに律法と預言者の全体がかかっているのです。」2017)とあります。

 イエス様が人の体を纏って地上におられた頃の宗教家たちは、主の御旨から外れた彼ら独自の律法解釈を持っていました(マタイ23章にそれらのいくつかが載っています)。彼らによると、イエス様は罪人でした。

 しかし神のひとり子のみ子イエス様から教えをうけた使徒ペテロは、律法の本質とは何であるのかを悟っていたのです。それは、神を愛し、隣人を愛することでした。
使徒ペテロは、イエス様について、「キリストは罪を犯したことがなく、その口には欺きもなかった。」(1ペテロ2222017)と述べているのです。

 イエス様を信じた者は、罪を赦され、神のものとして聖別されています。
エペソ17には、“わたしたちは、御子にあって、神の豊かな恵みのゆえに、その血によるあがない、すなわち、罪過のゆるしを受けたのである。”(口語訳)と記され、
ヘブル1010には、・・・、イエス・キリストのからだが、ただ一度だけ献げられたことにより、私たちは聖なるものとされています。2017)と記されています。

<お祈り>
天のお父様。
あなたの御名を賛美します。
イエス・キリスト様が十字架上で流された血によって、私たちは贖われ、罪赦され、聖なるものとして頂けました。
ありがとうございます。
あなたのみ旨に基づき、三一の主なる神様を愛し、隣人を愛して歩む生涯を送ることができますよう整え導いてください。
私たちの主キリスト・イエス様の御名で祈ります。アーメン。

2022年1月24日 (月)

つり合わぬくびき(ソロモンの例から)

 箴言51-14には次のように記されています。
“1
わが子よ、注意して私の知恵を聞け。私の英知に耳を傾けよ。
2
あなたが思慮深さを守り、あなたの唇が知識を保つために。
3
よその女の唇は蜂の巣の蜜を滴らせ、その口は油よりも滑らかだが、4 終わりには苦よもぎのように苦くなり、両刃の剣のように鋭くなるからだ。
5
この女の足は死に下って行き、その足取りはよみをつかみ取る。
6
その女はいのちの道に心を向けない。彼女が通う道はあてどもなくさまよう。しかし彼女は、それを知らない。
7
子たちよ、今、私に聞け。私の口のことばから離れるな。
8
あなたの道をこの女から遠ざけ、その家の戸口に近づくな。
9
そうでないと、あなたは自分の誉れを他人に渡し、あなたの年月を残忍な者に渡すことになる。
10
また、他人があなたの富で満たされ、あなたの労苦の実は見知らぬ者の家に渡る。
11
そして、あなたの終わりにあなたはうめく。あなたの肉とからだが滅びるとき。
12
そのとき、あなたは言う。「ああ、私は訓戒を憎み、私の心は叱責を侮った。
13
自分の教師の声に聞き従わず、自分を教える者に耳を傾けなかった。
14
私は、集会、会衆のただ中にあっても、ほとんど最悪の状況であった」と。2017)とあります。

 この箇所は、一般的に言って性的不品行を避けなさい、という教えですが、この箇所の箴言を表したのはソロモンである故、ソロモンとの対比で考えていきたいと思います。

 ソロモンがまだ若かった時代、ヤハウェ(主)から、「あなたに何を与えようか。願え。」と言われた時、ソロモンは次のように答えました。
 1列王記36-9には次のように記されています。
「あなたは、あなたのしもべ、私の父ダビデに大いなる恵みを施されました。父があなた〔ヤハウェ(筆者挿入)〕に対し真実と正義と真心をもって、あなたの御前に歩んだからです。あなたはこの大いなる恵みを父のために保ち、今日のように、その王座に着いている子〔ソロモン(筆者挿入)〕を彼にお与えになりました。7 わが神、主〔ヤハウェ(筆者挿入)〕よ。今あなたは私の父ダビデに代わって、このしもべを王とされました。しかし私は小さな子どもで、出入りする術を知りません〔「しかし、わたしは取るに足らない若者で、どのようにふるまうべきかを知りません」(新共同訳)〕。8 そのうえ、しもべは、あなたが選んだあなたの民の中にいます。あまりにも多くて、数えることも調べることもできないほど大勢の民です。9 善悪を判断してあなたの民をさばくために、聞き分ける心をしもべに与えてください。さもなければ、だれに、この大勢のあなたの民をさばくことができるでしょうか。」(2017)とあります。

 ヤハウェ(主)は、ソロモンの答えを喜びました。そして次のように語られたのです。
「あなたがこのことを願い、自分のために長寿を願わず、自分のために富を願わず、あなたの敵のいのちさえ願わず、むしろ、自分のために正しい訴えを聞き分ける判断力を願ったので、12 見よ、わたしはあなたが言ったとおりにする。見よ。わたしはあなたに、知恵と判断の心を与えるあなたより前に、あなたのような者はなく、あなたの後に、あなたのような者は起こらない13 そのうえ、あなたが願わなかったもの、富と誉れもあなたに与える。あなたが生きているかぎり、王たちの中であなたに並ぶ者は一人もいない14 また、あなたの父ダビデが歩んだように、あなたもわたしの掟と命令を守ってわたしの道に歩むなら、あなたの日々を長くしよう。」(1列王記311-152017)と記されています。

 しかしソロモンは、「わたしの掟と命令を守ってわたしの道に歩むなら」、というヤハウェ(主)の御言葉には従えなかったのでした。
特に異性に弱かったのです。
1
列王記111-3aには次のように記されています。
“1
ソロモン王は、ファラオの娘のほかに多くの異国人の女、すなわちモアブ人の女、アンモン人の女、エドム人の女、シドン人の女、ヒッタイト人の女を愛した。2 この女たちは、主〔ヤハウェ(筆者挿入)〕がかつてイスラエル人に、「あなたがたは彼らの中に入ってはならない。彼らをあなたがたの中に入れてもいけない。さもないと、彼らは必ずあなたがたの心を転じて彼らの神々に従わせる」と言われた、その国々の者であった。しかし、ソロモンは彼女たちを愛して離れなかった。3 彼には、七百人の王妃としての妻と、三百人の側女〔側室(新共同訳)〕がいた。2017)とあります。

 いのちの道(箴言56)に心を向けない女性たち{ヤハウェ(主)を神としない女性たち}をも妻として迎えたのです。
その結果はどの様になってしまったのでしょうか?
 1列王記114-8には次のように記されています。
“4
ソロモンが年をとったとき、その妻たちが彼の心をほかの神々の方へ向けたので、彼の心は父ダビデの心と違って、彼の神、主〔ヤハウェ(筆者挿入)〕と一つにはなっていなかった。5 ソロモンは、シドン人の女神アシュタロテと、アンモン人の、あの忌むべき神ミルコムに従った。6 こうしてソロモンは、主〔ヤハウェ(筆者挿入)〕の目に悪であることを行い、父ダビデのようには主〔ヤハウェ(筆者挿入)〕に従い通さなかった。7 当時ソロモンは、モアブの忌むべきケモシュのために、エルサレムの東にある山〔オリーブ山(筆者挿入)〕の上に高き所を築いた。アンモン人の、忌むべきモレク〔小児のいけにえを献げる礼拝(筆者挿入)〕のためにも、そうした。8 彼は異国人であるすべての妻のためにも同じようにしたので、彼女たちは自分の神々に香をたき、いけにえを献げた。2017)とあります。

 1列王記112に、「あなたがたは彼らの中に入ってはならない。彼らをあなたがたの中に入れてもいけない。さもないと、彼らは必ずあなたがたの心を転じて彼らの神々に従わせる」というヤハウェ(主)の御言葉の箇所は、申命記71-11に次のように記されていました。
1 あなたが入って行って所有しようとしている地に、あなたの神、主〔ヤハウェ(筆者挿入)〕があなたを導き入れるとき、主は、あなたよりも数多くまた強い七つの異邦の民、すなわち、ヒッタイト人、ギルガシ人、アモリ人、カナン人、ペリジ人、ヒビ人、およびエブス人をあなたの前から追い払われる。2 あなたの神、主〔ヤハウェ(筆者挿入)〕が彼らをあなたに渡し、あなたがこれを討つとき、あなたは彼らを必ず聖絶しなければならない。彼らと何の契約も結んではならない。また、彼らにあわれみを示してはならない。3 また、彼らと姻戚関係に入ってはならない。あなたの娘をその息子に嫁がせたり、その娘をあなたの息子の妻としたりしてはならない。4 というのは、彼らはあなたの息子を私から引き離し、ほかの神々に仕えさせ、こうして主〔ヤハウェ(筆者挿入)〕の怒りがあなたがたに向かって燃え上がって、あなたをただちに根絶やしにするからである。5 むしろ彼らに対して、このようにしなければならない。彼らの祭壇を打ち壊し、石の柱を打ち砕き、彼らのアシェラ像を切り倒し、彼らの彫像を火で焼かなければならない。6 あなたは、あなたの神、主〔ヤハウェ(筆者挿入)〕の聖なる民だからである。あなたの神、主〔ヤハウェ(筆者挿入)〕は地の面のあらゆる民の中からあなたを選んで、ご自分の宝の民とされた。7 主〔ヤハウェ(筆者挿入)〕があなたがたを慕い、あなたがたを選ばれたのは、あなたがたがどの民よりも数が多かったからではない。事実あなたがたは、あらゆる民のうちで最も数が少なかった。8 しかし、主〔ヤハウェ(筆者挿入)〕があなたがたを愛されたから、またあなたがたの父祖たちに誓った誓いを守られたから、主〔ヤハウェ(筆者挿入)〕は力強い御手をもってあなたがたを導き出し、奴隷の家から、エジプトの王ファラオの手からあなたを贖い出されたのである。9 あなたは、あなたの神、主〔ヤハウェ(筆者挿入)〕だけが神であることをよく知らなければならない。主は信頼すべき神であり、ご自分を愛し、ご自分の命令を守る者には恵みの契約を千代までも守られる。10 しかし、ご自分を憎む者には一人ひとりに報いて彼らを滅ぼされる。主はためらわず、ご自分を憎む者一人ひとりに報いられる。11 あなたは、私が今日あなたに命じる命令、すなわち掟と定めを守り行わなければならない。」(2017)とあります。

 ソロモンが、妻たちに偶像礼拝を許可したことに対し、ヤハウェ(主)はどのような態度に出られたのでしょうか?
 1列王記119-142326には次のように記されています。
“9
主〔ヤハウェ(筆者挿入)〕はソロモンに怒りを発せられた。それは彼の心がイスラエルの神、主〔ヤハウェ(筆者挿入)〕から離れたからである。主が二度も彼に現れ、10 このことについて、ほかの神々に従っていってはならないと命じておられたのに、彼が主〔ヤハウェ(筆者挿入)〕の命令を守らなかったのである。
11
そのため、主〔ヤハウェ(筆者挿入)〕はソロモンに言われた。「あなたがこのようにふるまい、わたしが命じたわたしの契約と掟を守らなかったので、わたしは王国をあなたから引き裂いて、あなたの家来に与える。12 しかし、あなたの父ダビデに免じて、あなたが生きている間はそうしない。あなたの子の手から、それを引き裂く。
13
ただし、王国のすべてを引き裂くのではなく、わたしのしもべダビデと、わたしが選んだエルサレムのために、一つの部族だけをあなたの子に与える。」
14
こうして主〔ヤハウェ(筆者挿入)〕は、ソロモンに敵対する者としてエドム人ハダドを起こされた。彼はエドムの王の子孫であった。/
23
神はまた、ソロモンに敵対する者として、エリヤダの子レゾンを起こされた。/
26
ツェレダ出身のエフライム人、ネバテの子ヤロブアムはソロモンの家来であった。彼の母の名はツェルアといい、やもめであった。ところが彼も王に反逆した。2017)と記されています。

 2コリント614-16には、
“14
不信者と、つり合わないくびきをともにしてはいけません。正義と不法に何の関わりがあるでしょう。光と闇に何の交わりがあるでしょう。
15
キリストとベリアル〔ヘブル語で「悪い者」の意。ここではサタンを表している(筆者挿入)〕に何の調和があるでしょう。信者と不信者が何を共有しているでしょう〔「信仰と不信仰に何の関係がありますか」(新共同訳、口語訳)〕。
16
神の宮と偶像に何の一致があるでしょう。私たちは生ける神の宮なのです。2017)と記されています。

 しかし、主の御言葉を守れず失敗してしまったときにはどうしたらよいのでしょう。
1
ヨハネ19には、「もし私たちが自分の罪を告白するなら、神は真実で正しい方ですから、その罪を赦し、私たちをすべての不義からきよめてくださいます。」(2017)と記されています。

 何故許されるのでしょうか?
それは、キリストが、自ら十字架の上で、私たちの罪をその身に負われた。1ペテロ2242017)からです。

<お祈り>
天のお父様。
あなたの御名を賛美します。
あなたのみ旨に従って歩まないと、それなりに大変なことが起こります。
あなたのみ旨に従って歩み続けることができますよう助け導いてください。
私たちの主キリスト・イエス様の御名で祈ります。アーメン。

2022年1月23日 (日)

すぐに苦難から解放されないときでも主に見捨てられているわけではない

 詩篇10篇の1節から13節までを読むと、
苦しみの中に置かれているある人が、ヤハウェ(主)に祈っているのに、ヤハウェ(主)がなかなか対応してくださらない場合があるという事例が記されています。
ところが14節以降に行くと、主が、その人の祈りを聞いていなかったのではなく、主にとって、そしてその人にとって、良き時に、主が、御業を行ってくださっているということが分かります。

詩聖の苦しみの中にある時の祈りが、1節に、
「主よ、なぜ、あなたは遠く離れて立ち、苦しみのときに、身を隠されるのですか。」(2017)と記されています。

 詩聖に苦しみをもたらしている相手がどの様なタイプの人々かについて、詩聖は、2-11節に次のように述べています。
2 悪しき者は高ぶって〔「神に逆らう傲慢な者」(新共同訳)は、(筆者挿入)〕、苦しむ人に追い迫ります。彼らが自分の企みに捕らえられますように。
3
悪しき者〔神に逆らう者(新共同訳)〕は自分自身の欲望を誇り、貪欲な者は主〔ヤハウェ(筆者挿入)〕を呪い、侮ります。
4
悪しき者は高慢を顔に表し、神を求めません。「神はいない。」これが彼の思いのすべてです。
5
彼の道はいつも栄え、あなたのさばきは高すぎて、彼の目に入りません。敵という敵を、彼は吹き飛ばしてしまいます。
6
彼は心の中で言っています。
『私は揺るがされることがなく、代々にわたってわざわいにあわない。』
7
彼の口は、呪いと欺きと虐げに満ち、舌の裏にあるのは、害悪と不法です。
8
彼は村外れの待ち伏せ場に座り、隠れた所で、咎なき者を殺します。
彼の目は不幸な人をひそかに狙っています。
9
茂みの中の獅子のように、隠れ場で待ち伏せます。苦しむ人を、捕らえようと待ち伏せ、苦しむ人を、網にかけて捕らえてしまいます。
10
彼の強さに、不幸な人は、砕かれ、崩れ、倒れます。
11
彼は心の中で言っています。
『神は忘れているのだ。顔を隠して、永久に見ることはないのだ。』」(2017)とあります。

 使徒ヨハネは、この世の人を二つのグループに分け、
神に属しているグループ
悪い者(サタン)の支配下にある(エペソ22参照)グループ
と記しています(1ヨハネ519)。

 アダムの堕罪により、人は誰もが悪魔(サタン)の支配下に置かれてしまったのです。
それは罪をもって生まれて来たゆえでした。
ローマ512に、アダムが罪を犯した時、罪は世界に入り込みました。アダムの罪によって死が全人類に広まり、すべての人は死ぬよう定められました。それと言うのも、すべての人が罪を犯したからです。(リビングバイブル)と記され、
詩篇515には、“私は生まれながらの罪人です。母が私をみごもった時から、罪人でした。”(リビングバイブル)と記されています。

 エペソ21-5を読むと、人が神に属するグループに入ることができるのは、神の恵みであることが分かります。エペソ21-5には次のように記されています。
“1
さて、あなたがたは自分の背きと罪の中に死んでいた者〔神に対して死んでおり永遠に滅びる定めにある者。神と断絶している者(筆者挿入)〕であり、2 かつては、それらの罪の中にあってこの世の流れに従い、空中の権威を持つ支配者〔悪魔=サタン(筆者挿入)〕、すなわち、不従順の子ら〔三一の神に従順でない人たち(筆者挿入)〕の中に今も働いている霊〔悪魔悪霊の霊(筆者挿入)〕に従って歩んでいました。
3
私たちもみな、不従順の子らの中にあって、かつては自分の肉の欲のままに生き、肉と心の望むことを行い〔肉の行為についてはガラテヤ519-21を参照(筆者挿入)〕、ほかの人たちと同じように、生まれながら御怒り〔神の怒り(筆者挿入)〕を受けるべき子らでした。
4
しかし、あわれみ豊かな神は、私たちを愛してくださったその大きな愛のゆえに、5 背きの中に死んでいた私たち〔神に背いて神とは断絶していた私たち(筆者挿入)〕を、キリストとともに生かしてくださいました。あなたがたが救われたのは恵みによるのです。2017)とあります。

 根本真理が分かると、悪い人たちも可哀そうであることが分かります。かつての自分を振り返れば、具体的な罪のジャンルは異なっても、本質は同じであることが分かります。それは、主に在って(主の中で)生きていない、ということです。

 詩篇1012には、詩聖の嘆願の祈りが、
「主よ、立ち上がってください。神よ、御手を上げてください。どうか、貧しい者を忘れないでください。」(2017)と記されています。

 詩聖は続く13節で、悪しき者は、どうして主を侮るのか?ということを、ヤハウェ(主)に聞いています。
「何のために、悪しき者は神を侮るのでしょうか。彼は心の中で、あなたが追及することはないと言っています。」(2017)と述べています。
 新共同訳は、「なぜ、逆らう者は神を侮り、罰などはない、と心に思うのでしょう。」と訳しています。

 わたし自身のことを振り返ると、主なる神様を求めたことは、主の恵みであったのだということを、救われた後に悟らせて頂いたのでした。感謝、ハレルヤです。

 詩聖は、14-18節で次のように祈っています。
14 あなたは見ておられました。
労苦と苦痛を、じっと見つめておられました。
それを御手の中に収めるために。
不幸な人は、あなたに身をゆだねます。
みなしごは、あなたがお助けになります。
15
悪しき者と邪悪な者の腕を折り、その悪を探し出して、一つも残らないようにしてください。
16
主〔ヤハウェ(筆者挿入)〕は世々にわたって、永遠の王。
国々は主の地から滅び失せました。
17
主〔ヤハウェ(筆者挿入)〕よ、あなたは貧しい者たちの願いを、聞いてくださいます。あなたは彼らの心を強くし、耳を傾けてくださいます。
18
みなしごと虐げられた者を、かばってくださいます。
地から生まれた人間が、もはや、彼らをおびえさせることがないように。」(2017)とあります。

 この祈りの中には、悟りあり(14)、嘆願あり(15.18b)、主への賛美あり(16-18a)、預言があります(16-18)。
キリストの千年王国では、主キリストが王の王として統治なさいます。

 主イエス様が、愛する者たちの祈りを聞いてくださらなかったために、主の愛する者が死んだことがありました。死んだ人は、ベタニヤのラザロでした。
しかしイエス様は、関わる人たちに、愛する者たちの願い以上の体験をさせたのでした。
また、ルカ1619-31のラザロと金持ちの話もあります。ラザロ(病気しか持っていない極貧の信仰者であったでしょう)と金持ち(この世においては財産家ですが主を信じていない人でした)の話は、彼らが、次の世で地上の歩みの結果を見たという話です。

 ヨハネ137には、イエス様の次のような御言葉が記されています。
「わが爲すことを汝いまは知らず、後に悟るべし。」(文語訳)と。

<お祈り>
天のお父様。
あなたの御名を賛美します。
救い主にして主であるイエス・キリスト様を信じさせてくださいましたことを感謝します。
益々、主を愛し、主に従順な歩みをしてくことができますように。
私たちの主キリスト・イエス様の御名で祈ります。アーメン。

2022年1月22日 (土)

イエス・キリスト様の十字架の予型と成就

 創世記221-18には次のように記されています。
“1
これらの出来事の後、神がアブラハムを試練にあわせられた。
神が彼に「アブラハムよ」と呼びかけられると、
彼は「はい、ここにおります」と答えた。
2
神は仰せられた。
「あなたの子、あなたが愛しているひとり子イサクを連れて、モリヤの地に行きなさい。そして、わたしがあなたに告げる一つの山の上で、彼を全焼のささげ物として献げなさい。」
3
翌朝早く、アブラハムはろばに鞍をつけ、二人の若い者と一緒に息子イサクを連れて行った。アブラハムは全焼のささげ物のための薪を割った。こうして彼は、神がお告げになった場所へ向かって行った。
4
三日目に、アブラハムが目を上げると、遠くの方にその場所が見えた。
5
それで、アブラハムは若い者たちに、
「おまえたちは、ろばと一緒に、ここに残っていなさい。私と息子はあそこに行き、礼拝をして、おまえたちのところに戻って来る」と言った。
6
アブラハムは全焼のささげ物のための薪を取り、それを息子イサクに背負わせ、火と刃物を手に取った。二人は一緒に進んで行った。
7
イサクは父アブラハムに話しかけて言った。
「お父さん。」
彼は「何だ。わが子よ」と答えた。
イサクは尋ねた。「火と薪はありますが、全焼のささげ物にする羊は、どこにいるのですか。」
8
アブラハムは答えた。「わが子よ、神ご自身が、全焼のささげ物の羊を備えてくださるのだ。」こうして二人は一緒に進んで行った。
9
神がアブラハムにお告げになった場所に彼らが着いたとき、アブラハムは、そこに祭壇を築いて薪を並べた。そして息子イサクを縛り、彼を祭壇の上の薪の上に載せた。
10
アブラハムは手を伸ばして刃物を取り、息子を屠ろうとした。
11
そのとき、主〔ヤハウェ(筆者挿入)〕の使いが天から彼に呼びかけられた。「アブラハム、アブラハム。」彼は答えた。「はい、ここにおります。」
12
御使いは言われた〔原語の直訳は「そして言った(筆者挿入)」。
「その子に手を下してはならない。その子に何もしてはならない。今わたしは、あなたが神を恐れていることがよく分かった。あなたは、自分の子、自分のひとり子さえ惜しむことがなかった。」
13
アブラハムが目を上げて見ると、見よ、一匹の雄羊が角を藪に引っかけていた。アブラハムは行って、その雄羊を取り、それを自分の息子の代わりに、全焼のささげ物として献げた。
14
アブラハムは、その場所の名をアドナイ・イルエ〔「ヤハウェ・イルエ」(聖書協会共同訳)〕と呼んだ。今日も、「主〔ヤハウェ(筆者挿入)〕の山には備えがある」と言われている。
15
主〔ヤハウェ(筆者挿入)〕の使いは再び天からアブラハムを呼んで、16 こう言われた。
「わたしは自分にかけて誓う──主〔ヤハウェ(筆者挿入)〕のことば──。あなたがこれを行い、自分の子、自分のひとり子を惜しまなかったので、17 確かにわたしは、あなたを大いに祝福し、あなたの子孫を、空の星、海辺の砂のように大いに増やす。あなたの子孫は敵の門を勝ち取る。18 あなたの子孫によって、地のすべての国々は祝福を受けるようになる。あなたが、わたしの声に聞き従ったからである。」2017)とあります。

 イサクの父アブラハムが、イサクを全焼のいけにえとして祭壇に献げたことは、父なる神様が御子イエス様を十字架という祭壇に献げたことの予型でした。

 イサクは、ささげられる者として自分から縛られて祭壇の上に載せられました。
イエス様は、十字架上で罪の贖いを成し遂げるために、その苦しみから逃げ出すことなく、自分がつけられる十字架を担って進んで行かれ、十字架に釘づけにされました。

 アブラハムとイサクは、神を畏れ敬い、神の御言葉に従いました。
御父と御子イエスは、罪びとを愛し、罪びとを救うために、御父は御子を愛する故に心を痛め、御子は恥をもいとわないで己を十字架上で屠りました。

御子イエス・キリストの十字架は、アブラハムとイサクのこの出来事が発生する以前から計画されていたことでした。その計画は天地創造以前からのことでした。
 新共同訳エフェソ(エペソ)1章には次のように記されています。
“4
天地創造の前に、神はわたしたちを愛して、御自分の前で聖なる者、汚れのない者にしようと、キリストにおいてお選びになりました。
5
イエス・キリストによって神の子にしようと、御心のままに前もってお定めになったのです。/
7
わたしたちはこの御子において、その血によって贖われ、罪を赦されました。これは、神の豊かな恵みによるものです。
8
神はこの恵みをわたしたちの上にあふれさせ、すべての知恵と理解とを与えて、9 秘められた計画をわたしたちに知らせてくださいました。これは、前もってキリストにおいてお決めになった神の御心によるものです。とあります。

 イサクの代わりに、神様は雄羊を備えてくださいました。
新約(新契約)は、イエス様の十字架と復活のゆえに発行されたものです。
それまでは旧約(旧契約)の時代でした(出エジプト243-8参照)。
羊等の定められたいけにえ動物の頭に手を置いて罪の告白をし、自分のすべての罪をその羊に負ってもらい、自分の代わりに羊が裁かれたのでした。そのようにして罪が赦されたのです(レビ記4章)。

 バプテスマのヨハネの証言記事がヨハネの福音書1章に次のように記されています。
“29
・・、ヨハネは自分の方にイエスが来られるのを見て言った。
「見よ、世の罪を取り除く神の子羊。30 『私の後に一人の人が来られます。その方は私にまさる方です。私より先におられたからです』と私が言ったのは、この方のことです。31 私自身もこの方を知りませんでした。しかし、私が来て水でバプテスマを授けているのは、この方がイスラエルに明らかにされるためです。」
32
そして、ヨハネはこのように証しした。
「御霊が鳩のように天から降って、この方の上にとどまるのを私は見ました。33 私自身もこの方を知りませんでした。
しかし、水でバプテスマを授けるようにと私を遣わした方が、私に言われました。
『御霊が、ある人の上に降って、その上にとどまるのをあなたが見たら、その人こそ、聖霊によってバプテスマを授ける者である。』
34
私はそれを見ました。それで、この方が神の子であると証しをしているのです。」2017)とあります。

 アブラハムとイサクが主を畏れ敬い、主に従った結果、主は次のような約束をなさいました。16-18節には次のように記されています。
16 ・・。わたしは自分にかけて誓う──主〔ヤハウェ(筆者挿入)〕のことば──。あなたがこれを行い、自分の子、自分のひとり子を惜しまなかったので、17 確かにわたしは、あなたを大いに祝福し、あなたの子孫を、空の星、海辺の砂のように大いに増やす。あなたの子孫は敵の門を勝ち取る。18 あなたの子孫によって、地のすべての国々は祝福を受けるようになる。あなたが、わたしの声に聞き従ったからである。」2017)とあります。

 18節には、「あなたの子孫によって、地のすべての国々は祝福を受けるようになる。あなたが、わたしの声に聞き従ったからである。」と記されている中の「あなたの子孫について」
ガラテヤ316は次のように注解しています。
約束は、アブラハムとその子孫に告げられました。神は、「子孫たちに」と言って多数を指すことなく、一人を指して「あなたの子孫に」と言っておられます。それはキリストのことです。2017)と記しています。

 創世記22章において、御子イエス・キリストは、主の使い(御父の名代としての御子)として、後に受肉されるイエス・キリストの予表である雄羊として、肉においてはアブラハムの子孫として誕生するイェシュア{(イエス)マタイ11参照}として記されているのです。

 ローマ13.4をリビングバイブルは次のように意訳しています。
“3
・・・。この方〔主イエス・キリスト(筆者挿入)〕は、人の子として、ダビデ王〔ダビデ王の先祖はアブラハム(筆者挿入)〕の家系にお生まれになりました。4 しかも、死んでのち復活することにより、神のきよい性質を備えた、力ある神のひとり子であることが証明されたのです。とあります。

<お祈り>
天のお父様。
あなたの御名を賛美します。
イエス様ご自身が、「・・・聖書は、わたしについて証ししているものです。」(ヨハネ5392017)と語っておられますように、あなたは旧約聖書の中のあちらこちらにキリストの予型or予表を記してくださっておられますから感謝します。
旧約聖書もその観点から読み進めることができますように。
私たちの主キリスト・イエス様の御名で祈ります。アーメン。

2022年1月21日 (金)

ヤハウェ・イルエ(主は備えるor主は現れる)

 聖書協会共同訳の創世記229-14は次のように記しています。
“9
 神が示された場所に着くと、アブラハムはそこに祭壇を築き、薪を並べ、息子イサクを縛って祭壇の薪の上に載せた。
10
 アブラハムは手を伸ばして刃物を取り、息子を屠ろうとした。
11
 すると、天から主の使いが呼びかけ、
「アブラハム、アブラハム」と言った。
彼が、「はい、ここにおります」と答えると、
12
 主の使いは言った。
「その子に手を下してはならない。何もしてはならない。あなたが神を畏れる者であることが今、分かった。あなたは自分の息子、自分の独り子を私のために惜しまなかった。」
13
 アブラハムが目を上げて見ると、ちょうど一匹の雄羊がやぶに角を取られていた。アブラハムは行ってその雄羊を捕らえ、それを息子の代わりに焼き尽くすいけにえとして献げた。
14
 アブラハムはその場所をヤハウェ・イルエと名付けた。それは今日、「主の山に、備えあり〔ヘブライ語原語は、「ベハル ヤハウェ イルエ―」(筆者挿入)〕と言われている。とあります。

 9節には、“神が示された場所に着くと、アブラハムはそこに祭壇を築き、薪を並べ、息子イサクを縛って祭壇の薪の上に載せた。”とあります。
「神が示された場所に着くと」とありますが、「神が示された場所」とは「モリヤ」でした。
ヘブライ語のモリヤを地名としてではなく訳すと、「ヤハウェが備える地」あるいは「ヤハウェ顕現の地」という意味です。後にエルサレム神殿が建てられた場所です。

 新約時代の神殿について、
1
コリント316(抜粋)は、キリスト者を指して、「あなたがたは、自分が神の神殿であり、神の霊が自分たちの内に住んでいる・・」(新共同訳)と述べ、
1
コリント619(抜粋)では、「あなたがたの体は、神からいただいた聖霊が宿ってくださる神殿であり、あなたがたはもはや自分自身のものではないのです。」(新共同訳)と述べています。

 アブラハムは、ヤハウェ(主)から、「あなたの息子、あなたの愛する独り子イサクを連れて、モリヤの地に行きなさい。そして私が示す一つの山で、彼を焼き尽くすいけ にえとして献げなさい。」(創世記222・聖書協会共同訳)という命令を受け、翌朝早くベエル・シェバを出立しました(3)。
 
 イサクについてアブラハムには、イサクを形づくるもととなるものがサラの子宮に与えられる前に、すでに次のような約束がヤハウェ(主)から与えられていました。
「あなたの妻であるサラがあなたに男の子を産む。その子をイサクと名付けなさい。私は彼と契約を立て、それをその後に続く子孫のために永遠の契約とする。/私が契約を立てるのは、来年のこの時期に、サラがあなたに産むイサクとである。」(創世記1719,21・聖書協会共同訳)と。

 おそらくアブラハムは、「イサクを焼き尽くすいけ にえとして献げなさい。」という神ヤハウェ(主)の命令と、「わたしはイサクと契約を立て、それをその後に続く子孫のために永遠の契約とする。」という神ヤハウェの御言葉がどの様な意味なのかを考えたことでしょう。
アブラハムの出した結論は、ヘブル1117-19に記されている内容の事柄であったことでしょう。
 ヘブル1117-19には次のように記されています。
“17
信仰によって、アブラハムは試みを受けたときにイサクを献げました。約束を受けていた彼が、自分のただひとりの子を献げようとしたのです。
18
神はアブラハムに
「イサクにあって、あなたの子孫が起こされる」
と言われましたが、
19
彼〔アブラハム(筆者挿入)〕は、神には人を死者の中からよみがえらせることもできると考えました。それで彼は、比喩的に言えば、イサクを死者の中から取り戻したのです。2017)とあります。

 イサクは、アブラハムから、自分が全焼のいけにえ(焼き尽くすいけにえor全焼のささげ物)にされるということを聞かずに、アブラハムと共にモリヤの山まで来たのです。
イサクは、アブラハムから、自分の誕生にまつわる話やイサクに対するヤハウェ(主)の約束を聞いていいたことと思います。
自分が全焼のささげ物とされると聞いたとき、イサクがどの様に考えたのかは分かりませんが、ヤハウェ(主)がアブラハムに命じた命令に従順に従い、縄で縛られて祭壇の薪の上に置かれたのです。

 その状態になったとき、アブラハムは、手を伸ばして刃物を取り、息子を屠ろうとしました(10)。

 ヤハウェ(主)は、ここまでを見届け、アブラハムがイサクを屠る寸前に、ヤハウェ(主)の使いが次のような声をかけました。
「その子に手を下してはならない。何もしてはならない。あなたが神を畏れる者であることが今、分かった。あなたは自分の息子、自分の独り子を私のために惜しまなかった。」

 ここに登場しているヤハウェ(主)の使いは、ヤハウェ{三一の神である主、受肉前の御子イエス・キリスト}であると思います。ヤハウェ(主)とは神の呼称です。ヤハウェは自存にして永遠の意味を持っています。ヤハウェとは「ある」(あり続ける)というお方です(出エジプト314)。

 御父も御子も天地創造以前に計画していたイエス・キリストによる贖いの御業の予型をアブラハムとイサクにさせたのです。
アブラハムとイサクは、そのことを知らず、ただヤハウェ(主)の御言葉を信じ、従ったのです。

 ヤハウェ(主)は、全焼のいけにえとして「雄羊」を備えました。
13
節に、アブラハムが目を上げて見ると、ちょうど一匹の雄羊がやぶに角を取られていた。アブラハムは行ってその雄羊を捕らえ、それを息子の代わりに焼き尽くすいけにえとして献げた。と記されている通りです。 

 14節には、アブラハムはその場所をヤハウェ・イルエと名付けた。”と記されています。
モーセ五書を書いたのは、ほぼモーセと言われていますから、モーセの時代、モーセは、それは今日、「主の山に、備えあり〔ヘブライ語原語は、「ベハル ヤハウェ イルエ―」(筆者挿入)〕と言われている。14)と記しています。
「ヘブライ語原語は、「ベハル ヤハウェ イルエ―」となっています。
「ベハル」の「ベ」は接頭前置詞で、~で、~の中で、の意です。
「ハル」は山、丘の意です。
「イルエ」の「イ」は未完了形を表しているのでしょう。神様の未完了は、定めの時に完了するのです。それ故不安定な未来形とは異なります。
「ルエ」は、「ラーアー」です。母音の付き方で「ルエ」となったのでしょう。「ラーアー」の原義は「見る」で、顕現する、是認する、見抜く、・・・等々の意があります。

 主の山の中で主は顕現されるのです。
新約時代、キリスト者の内に主は顕現されます。
始終顕現されている方もいれば、気づかない方もいるかも知れませんが。
主は内住してくださっておられます。
ハレルヤ!大感謝です。

<お祈り>
天のお父様。
あなたの御名を賛美します。
主に信頼し続けることの重要性を教えられます。
主を愛し、主に信頼し続ける者であらせてください。
私たちの主キリスト・イエス様の御名で祈ります。
アーメン。
・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・
イザヤ264「とこしえに主〔原語は「ヤハウェ」(筆者挿入)〕に信頼せよ、主なる神〔原語は「ヤハ ヤハウェ」(筆者挿入)、「ヤハ、主」(新改訳)〕はとこしえの岩〔原語は「ツール」で意味の中には「神」の意もあります(筆者挿入)〕だからである。」(口語訳)
ルカ137「それ神の言(ことば)には能(あた)はぬ所なし」(文語訳)
ルカ145「信ぜし者は幸福(さいわい)なるかな、主の語り給(たま)ふ(給う)ことは必ず成就すべければなり。」(文語訳)
ヨハネ1423「だれでもわたしを愛する人は、わたしのことばを守ります。そうすれば、わたしの父はその人を愛し、わたしたちはその人のところに来て、その人とともに住みます。」(2017

2022年1月20日 (木)

ヤハウェ(主)に献身していたイサク

 創世記226-9には次のように記されています。
“6
アブラハムは全焼のささげ物のための薪(たきぎ)を取り、それを息子イサクに背負わせ、火と刃物を手に取った。二人は一緒に進んで行った。
7
イサクは父アブラハムに話しかけて言った。
「お父さん。」
彼は
「何だ。わが子よ」と答えた。
イサクは尋ねた。
「火と薪はありますが、全焼のささげ物にする羊は、どこにいるのですか。」
8
アブラハムは答えた。
「わが子よ、神ご自身が、全焼のささげ物の羊を備えてくださるのだ。」
こうして二人は一緒に進んで行った。
9
神がアブラハムにお告げになった場所に彼らが着いたとき、アブラハムは、そこに祭壇を築いて薪を並べた。
そして息子イサクを縛り、彼を祭壇の上の薪の上に載せた。2017)とあります。

 イサクの名前について
創世記189-15には次のように記されています。
“9
 彼らはアブラハムに「あなたの妻のサラはどこですか」と尋ねた。
アブラハムが「その天幕の中にいます」と答えると、
10
 彼らの一人が言った。「私は必ず来年の今頃、あなたのところに戻って来ます。その時、あなたの妻のサラには男の子が生まれているでしょう。」
サラは、その人の後ろにある天幕の入り口で聞いていた。
11
 アブラハムとサラは多くの日を重ねて年を取り、サラには月経がなくなっていた。
12
 サラは心の中で笑って言った。
「老いてしまった私に喜びなどあるだろうか。主人も年を取っているのに。」
13
 主〔ヤハウェ(筆者挿入)〕はアブラハムに言われた。
「どうしてサラは、自分は年を取っているのに本当に子どもを産むことなどできるのか、と言って笑ったのか。14 主〔ヤハウェ(筆者挿入)〕にとって不可能なことがあろうか。私があなたのところに戻って来る来年の今頃には、サラに男の子が生まれている。」
15
 サラは怖くなり、打ち消して言った。
「いえ、私は笑っていません。」
主は言われた。
「いや、あなたは確かに笑った。」(聖書協会共同訳)

 創世記189-15には、「笑う」という語が、4回(12.13.15節)出て来ます。
「笑う」という語のヘブライ語原語は「ツァーハク」です。

 創世記211-7には次のように記されています。
“1
主〔ヤハウェ(筆者挿入)〕は約束したとおりに、サラを顧みられた。主〔ヤハウェ(筆者挿入)〕は告げたとおりに、サラのために行われた。
2
サラは身ごもり、神がアブラハムに告げられたその時期に、年老いたアブラハムに男の子を産んだ。
3
アブラハムは、自分に生まれた子、サラが自分に産んだ子をイサクと名づけた〔イサクという名は神が決められた名前{創世記1719参照}(筆者挿入)〕。
4
そしてアブラハムは、神が命じられたとおり、生後八日になった自分の子イサクに割礼を施した〔創世記179-14参照(筆者挿入)〕。
5
アブラハムは、その子イサクが彼に生まれたとき、百歳であった。
6
サラは言った。
「神は私に笑いを下さいました。これを聞く人もみな、私のことで笑うでしょう。」
7
また、彼女は言った。
「だれがアブラハムに、『サラが子に乳を飲ませる』と告げたでしょう。ところが私は、主人が年老いてから子を産んだのです。」2017)とあります。
 6節の「私のことで笑うでしょう」の「笑う」という語のヘブライ語原語は「ツァーハク」で、「笑うでしょう」のヘブライ語原語は「イツハーク」(日本語聖書では「イサク」)で、3節の「イサクと名づけた」の「イサク」は「イツハーク」です。

 創世記226-9a節の文章を読むと、イサクは、まさか自分がいけにえにされるとは思わなかったと思います。
父アブラハムは、いけにえの動物はヤハウェ(主)が備えてくださる、とイサクに言っていたのですから(8)。

 2017訳の創世記229には、
神がアブラハムにお告げになった場所に彼らが着いたとき、アブラハムは、そこに祭壇を築いて薪を並べた。
そして息子イサクを縛り、彼を祭壇の上の薪の上に載せた。と記されています。

 「薪を並べた」と「そして息子イサクを縛り」の間には、言葉がありません。
イサクは薪を背負って歩ける若人です。
一方アブラハムは、100歳+イサクの年齢です。
イサクは、アブラハムを突き倒して逃げ帰ることもできたのです。

 しかし文章を読むと、イサクは、抵抗することもなく縛られ、いけにえとして準備されています。
イサクは、ヤハウェ(主)に対する献身の心を持っていたのではないかと私は想像します。イサクに、自分自身を全焼のささげ物としてヤハウェ(主)にお捧げする、という思いがなかったならば、この出来事は成立しなかったことでしょう。

 この後、イサクの代わりに、ヤハウェ(主)がいけにえの羊を備えてくださいました(13)ので、その時にはイサクは名前のとおり、「彼は笑った」ことでしょう。
(イサクは、彼は笑う、の意)

 アブラハムは、全部で8人の子をもうけました。
しかし、主の御旨の内にあって、主によって与えられた子はイサクだけでした。
アブラハムの他の7人は、肉による(人の意思や肉の望むところによる)子どもたちでした。
アブラハムとハガルの子のイシュマエルが一人、及び、
アブラハムとケトラの子の6人の子どもたち、すなわち、ジムラン、ヨクシャン、メダン、ミディアン、イシュバク、シュアハです(創世記251)。
アブラハムは、アブラハムの肉の子には、贈り物を与えて、遠くに行かせたのです(創世記256)。
アブラハムの全財産は、イサクに与えられました(創世記255)。

 イサクは、ヤハウェ(主)の約束の子どもでした。
キリスト者も同じです。
キリスト者に対して主はパウロを通して、「ですから、兄弟たち、私は神のあわれみによって、あなたがたに勧めます。あなたがたのからだを、神に喜ばれる、聖なる生きたささげ物として献げなさい。それこそ、あなたがたにふさわしい礼拝です。この世と調子を合わせてはいけません。むしろ、心を新たにすることで、自分を変えていただきなさい。そうすれば、神のみこころは何か、すなわち、何が良いことで、神に喜ばれ、完全であるのかを見分けるようになります。」(ローマ121.22017)と語っておられます。

 キリスト者は、万物の根源である御父の都、天のエルサレムに住むことになるのです。
イエス様は、「そのとき、正しい人たちは彼らの父の御国で太陽のように輝きます。」(マタイ13432017)と言われました。
またイエス様は、次のようにも言われました。
1 あなたがたは心を騒がせてはなりません。神を信じ、またわたしを信じなさい。2 わたしの父の家には住む所がたくさんあります。そうでなかったら、あなたがたのために場所を用意しに行く、と言ったでしょうか。3 わたしが行って、あなたがたに場所を用意したら、また来て、あなたがたをわたしのもとに迎えます。わたしがいるところに、あなたがたもいるようにするためです。」(ヨハネ141-32017)と記されています。

<お祈り>
天のお父様。
あなたの御名を賛美します。
ローマ121.2に記されているように、
私たちのからだを、神に喜ばれる、聖なる生きたささげ物として献げ続け、この世と調子を合わせることなく、常に心をあなたに向け、あなたにふさわしい者として自分自身を変えていただきつつ、神に喜ばれる歩みをする者であらせてください。
私たちの主キリスト・イエス様の御名で祈ります。アーメン。

2022年1月19日 (水)

自分の最愛の人よりも神であるヤハウェを愛するか

 創世記221-5には次のように記されています。
“1
これらの出来事の後、神がアブラハムを試練にあわせられた。神が彼に「アブラハムよ」と呼びかけられると、彼は「はい、ここにおります」と答えた。
2
神は仰せられた。
「あなたの子、あなたが愛しているひとり子イサクを連れて、モリヤの地に行きなさい。そして、わたしがあなたに告げる一つの山の上で、彼を全焼のささげ物として献げなさい。」
3
翌朝早く、アブラハムはろばに鞍をつけ、二人の若い者と一緒に息子イサクを連れて行った。アブラハムは全焼のささげ物のための薪を割った。こうして彼は、神がお告げになった場所へ向かって行った。
4
三日目に、アブラハムが目を上げると、遠くの方にその場所が見えた。
5
それで、アブラハムは若い者たちに、「おまえたちは、ろばと一緒に、ここに残っていなさい。私と息子はあそこに行き、礼拝をして、おまえたちのところに戻って来る」と言った。2017)とあります。

 1節には、“これらの出来事の後、神がアブラハムを試練にあわせられた。神が彼に「アブラハムよ」と呼びかけられると、彼は「はい、ここにおります」と答えた。”とありますように、アブラハムは、神の声を知っており、また、直ちに神の声を聞くことの出来た人です。

 また、1節には、「神がアブラハムを試練にあわせられた。」とありますから、神は、神を愛して神に従う者に対して試練にあわせることがある、ということが分かります。

 2節には試練の内容が記されています。
それは、「彼(最愛のイサク)を全焼のささげ物として献げなさい。」というものでした。
アブラハムにとっての最愛のものはイサクでしたが、キリスト者一人一人の最愛のものとは誰or何でしょうか。
それを献げなさい、とヤハウェ(主)は語られるのです。

 神様は、上記の命令を下す前に、「モリヤの地に行きなさい。」と命じています。
「モリヤ」をStrong辞書で調べると、「モリヤ」の「ヤ」のヘブライ語を英字表記に変換するすると“Yah”となり、ヤハウェ(主)の短縮形となっています。「モリヤ」は、「ラーアー」と「ヤー」という語から来ていると書いてあります。「ラーアー」は、見る、の意です。
モリヤの「モ」(ヘブライ語の「メム」)は全頭前置詞かも知れません。誰か教えてください。

 創世記22章を読み進めると分かりますが、アブラハムは、モリヤの山で神の御業を見るのです。
聖書協会共同訳の創世記2214には、「ヤハウェ・イルエ」、「主の山に、備えあり」という言葉が出て来ます。
聖書協会共同訳の欄外注に、「ヤハウェ・イルエ」は、「主は備える」の意、と記し、
「主の山に、備えあり」という文の「備えあり」について、聖書協会共同訳の欄外注は、別訳として、「主は現れる」と記しています。
「ヤハウェ・イルエ」の「イルエ」について、Strong辞書は、「ラーアー」から来ている、と述べています。「ラーアー」は、見る、の意です。2017訳の、「主の山には備えがある」という箇所の欄外注には、「主が備えてくださる」「主が見てくださる」の意、と記されています。

 アブラハムが住んでいたベエル・シェバという場所からモリヤ山までは100km近くあるようです。アブラハムとイサクはモリヤ山に行くのに3日かかっています。

 アブラハムは、最愛の息子と神ヤハウェのどちらをより愛するか、という試練を与えられましたが、「翌朝早く」(3)神ヤハウェの御言葉に従ってモリヤ山に向けて出発したのです。
 
 イエス様は、キリストの弟子たちに対して、「わたしよりも父や母を愛する者は、わたしにふさわしい者ではありません。わたしよりも息子や娘を愛する者は、わたしにふさわしい者ではありません。」(マタイ10372017)と語られました。

 イエス様は、キリスト者に対して、キリスト者は、父母、息子、娘を愛しますが、それ以上に私イエスを愛していなければ、イエス様の弟子としてふさわしくない、と語られたのです。

 「あなたは天国に言った時に、最初にだれに会いたいですか?」と聞かれた時、
「イエス様です。」と答えることが出来たら幸いですね。

 アブラハムが、神の命令に従った理由の一つに次のようなものがあります。
ヘブル1117-19には次のように記されています。
“17
信仰によって、アブラハムは試みを受けたときにイサクを献げました。約束を受けていた彼が、自分のただひとりの子を献げようとしたのです。
18
神はアブラハムに「イサクにあって、あなたの子孫が起こされる」と言われましたが、
19
彼は、神には人を死者の中からよみがえらせることもできると考えました。それで彼は、比喩的に言えば、イサクを死者の中から取り戻したのです。2017)とあります。
アブラハムが、上記のような考えに至ったのが、出発以前であったのか、歩いている途中であったのかについて、聖書は語っていませんが、ベエル・シェバを出立して三日目には、「おまえたち〔二人の若い者たち(筆者挿入)〕は、ろばと一緒に、ここに残っていなさい。私と息子はあそこに行き、礼拝をして、おまえたちのところに戻って来る」と言っています(5)。

 ヘブル1117-19節の解説以外にも、私は、アブラハムが、「モリヤ」という語を聞いたとき、神が出現して、何かをしてくださる、と想像したのではないかと思います。

<お祈り>
天のお父様。
あなたの御名を崇めます。
あなたは私たちを想像ができないくらいに大いに愛してくださっておられますから、あなたの御言葉に従うことが一番だと思います。
あなたを愛する愛を更に加えてくださり、喜びをもってあなたにお従いすることができますよう祝福してください。
私たちの主キリスト・イエス様の御名で祈ります。アーメン。

2022年1月18日 (火)

義のために(キリストのために)迫害された者は喜びなさい

 マタイ510を、
文語訳は、幸福なるかな、義のために責められたる者。天國はその人のものなり。と訳し、
新共同訳は、義のために迫害される人々〔原語は複数形(筆者挿入)〕は、幸いである、天の国はその人たちのものである。と訳し、新共同訳スタディ版の注は、後半部分をもしくは「その人たちは天の国のものである」。と記しています。
塚本訳は、ああ幸いだ、信仰のために迫害される人たち、天の国はその人たちのものとなるのだから。と訳しています。

 「義のために」とイエス様は語っておられますが、ここでいう「義」とは何を指しているのでしょうか?
 ピリピ(フィリピ)36のパウロの証しの中に、「律法による義」(2017or「律法の義」(新共同訳)という表現があります。
 イエス様は、「預言者を預言者だからということで受け入れる人は、預言者の受ける報いを受けます。また、義人〔正しい人(新共同訳)〕を義人だからということで受け入れる人は、義人の受ける報いを受けます。」(マタイ10412017)と語られ、また、「はっきり言っておく。多くの預言者や正しい人〔義人(新改訳)〕たちは、あなたがたが見ているものを見たかったが、見ることができず、あなたがたが聞いているものを聞きたかったが、聞けなかったのである。」(新共同訳)と語られたことがありました。
 今日の箇所の「義のために」と記されている「義」は、「律法の義」なのでしょうか、それとも「義人」と言われる人の「義」なのでしょうか?

 イエス様は、「7 しかし、わたしは真実を言います。わたしが去って行くことは、あなたがたの益になるのです。去って行かなければ、あなたがたのところに助け主〔「聖霊」のこと(筆者挿入)〕はおいでになりません。でも、行けば、わたしはあなたがたのところに助け主を遣わします。
8
その方が来ると、罪について、義について、さばきについて、世の誤りを明らかになさいます。
9
罪についてというのは、彼らがわたしを信じないからです。
10
義についてとは、わたしが父のもとに行き、あなたがたがもはやわたしを見なくなるからです。
11
さばきについてとは、この世を支配する者〔悪魔=サタン(筆者挿入)〕がさばかれたからです。」(ヨハネ16章・2017)と語られました。

 イエス様の贖いが成就し、私たちに聖霊が遣わされると、イエス様を信じないことが罪であり、十字架上で罪人として裁かれたイエス様こそ義なるお方であると悟ることができる、というのです。
イエス様が十字架につかれたのは、御父の御旨であり、イエス様ご自身の御意志でした。
1
ペテロ222-24には次のように記されています。
“22
キリストは罪を犯したことがなく、その口には欺きもなかった。23 ののしられても、ののしり返さず、苦しめられても、脅すことをせず、正しくさばかれる方にお任せになった。24 キリストは自ら十字架の上で、私たちの罪をその身に負われた。2017)とあります。
 マルコ1619には、主イエスは彼ら〔弟子たち(筆者挿入)〕に語った後、天に上げられ、神の右の座に着かれた。2017)と記されています。

 信仰による義というものがあります。
ローマ320-22を口語訳は、“20 なぜなら、人はだれも、律法を行うことによっては神の前に義と認められないからです。律法を通して生じるのは罪の意識です。21 しかし今や、律法とは関わりなく、律法と預言者たちの書によって証しされて、神の義が示されました。22 すなわち、イエス・キリストを信じることによって、信じるすべての人に与えられる神の義です。そこに差別はありません。と記しています。

 1コリント130には、しかしあなたがたは、神によってキリスト・イエスのうちにあるのです。キリストは、私たちにとって、神の知恵となり、また、義と聖めと、贖いとになられました。(新改訳第三版)と記されています。

 イエス様が「義のために迫害される人々」(新共同訳)と語られた内容は、「キリストの故に迫害される人々」&「キリストを信じる信仰の故に迫害される人々」と言い換えることが出来るのではないかと思います。

 マタイ510を私なりに意訳すると、「祝福されています。キリストの故に迫害される人々orキリストを信じる信仰の故に迫害される人々。その人たちは天の王国のものです。」となります。

 「義」をこの世的にとって、「あの人は正しい人だ」と、その人をこの世の人々が認めた場合があったとしても、主イエス・キリスト様を信じなければ、天の御国に入ることは出来ないのです。

 11.12節には、迫害を受けたときには、キリストの御座における裁き(2コリント510)において、大きな報酬を受けることが約束されています。
 11.12節を
口語訳は、わたしのために人々があなたがたをののしり、また迫害し、あなたがたに対し偽って様々の悪口を言う時には、あなたがたは、さいわいである。喜び、よろこべ、天においてあなたがたの受ける報いは大きい。あなたがたより前の預言者たちも、同じように迫害されたのである。と訳し、
塚本訳は、わたしゆえに罵られたり、迫害されたり、あらん限りの根も葉もない悪口を言われたりする時、あなた達は幸いである。小躍りして喜びなさい、褒美がどっさり天であなた達を待っているのだから。あなた達より前の預言者たちも、同じように迫害されたのである。と訳しています。

 パウロは、
2
テモテ312で、「キリスト・イエスにあって敬虔に生きようと願う者はみな〔信心深く生きようとする人は皆(新共同訳)〕、迫害を受けます。」(2017)と述べ、
テサロニケの信徒の人たちには、わたしたち自身、あなたがたが今、受けているありとあらゆる迫害と苦難の中で、忍耐と信仰を示していることを、神の諸教会の間で誇りに思っています。2テサロニケ14・新共同訳)と書き送りました。

<お祈り>
天のお父様。
あなたの御名を賛美します。
イエス様は、「あなたがたには世で苦難がある。しかし、勇気を出しなさい。わたしは既に世に勝っている。」(ヨハネ1633・新共同訳)と語られました。
苦難に会ってもイエス様にあって勝利するものであらせてください。
私たちの主キリスト・イエス様の御名で祈ります。アーメン。

2022年1月17日 (月)

自分の心を見張れ

 箴言423-27には次のように記されています。
“23
何を見張るよりも、あなたの心を見守れ。いのちの泉はこれから湧く。
24
曲がったことを言う口をあなたから取り除き、ゆがんだことを言う唇をあなたから遠ざけよ。
25
あなたの目が前方を見つめ、まぶたがまっすぐ前を向くようにせよ。
26
あなたの足の道筋に心を向けよ。そうすれば、あなたのすべての道は堅く定まる。
27
右にも左にもそれてはならない。あなたの足を悪から遠ざけよ。2017)とあります。

 箴言423を、
2017
は、何を見張るよりも、あなたの心を見守れ。いのちの泉はこれから湧く。と訳し、
口語訳は、油断することなく、あなたの心を守れ、命の泉は、これから流れ出るからである。と訳し、
新共同訳は、何を守るよりも、自分の心〔(ヘ)「レブ」(筆者挿入)〕を守れ。そこに命の源がある。と訳し、
リビングバイブルは、「何よりも、あなたの心を守りなさい。心は生活全体に影響を与えるからです。」と意訳し、
フランシスコ会訳は、用心深くお前の心を守れ。そこから、命の泉が湧き出る。と訳し、
聖書協会共同訳は、守るべきものすべてにも増してあなたの心を保て。命はそこからくる。と訳しています。

 「あなたの心を守りに守れ、すべてから。何故なら、いのちの(複数形)出口の一部だから。」(私訳)とも訳せます(直訳的に)。

 この聖句を読んでいると、新約的には、イエス様の次の聖句を思い浮かべます。
ヨハネ737-39には次のように記されています。
“37
祭り〔仮庵の祭(筆者挿入)〕が最も盛大に祝われる終わりの日に、イエスは立ち上がって大声で言われた。「渇いている人はだれでも〔直訳は、「誰かが渇いているなら」(筆者挿入)〕、わたしのところに来て飲みなさい。
38
わたし〔イエス・キリスト(筆者挿入)〕を信じる者は、聖書に書いてあるとおり、その人の内〔ギリシア語原語は「コイリア」で、空洞、腹、子宮、心、マトリックス等の意があります(筆者挿入)〕から生きた水が川〔「川」は複数形(筆者挿入)〕となって流れ出るようになる。」
39
イエスは、御自分を信じる人々が受けようとしている“霊”について言われたのである。イエスはまだ栄光を受けておられなかったので、“霊”がまだ降っていなかった〔直訳「聖霊はまだなかった」で、人の内に住んでくださるという意味での聖霊はまだ来ていなかった、との意でしょう。旧約時代は内住ではありませんでした。(筆者挿入)〕からである。(新共同訳)

 新約時代にキリスト者に内住してくださった聖霊は、全き神である御子が全き罪のない人となり、その御子イエス様の内にあって、イエス様と共に人間性を体験なさったのです。その聖霊がキリスト者に内住してくださったのです。それ故、ローマ826.27同様に、”霊”も弱いわたしたちを助けてくださいます。わたしたちはどう祈るべきかを知りませんが、”霊”自らが、言葉に表せないうめきをもって執り成してくださるからです。人の心を見抜く方は、”霊”の思いが何であるかを知っておられます。”霊”は、神の御心に従って、聖なる者たちのために執り成してくださるからです。(新共同訳)という聖句にも頷けるのです。

 11弟子たちが聖霊を受けたのは、ヨハネ2021.22の箇所であり、次のように記されています。
“21
イエスは再び彼らに言われた。「平安があなたがたにあるように。父がわたしを遣わされたように、わたしもあなたがたを遣わします。」22 こう言ってから、彼らに息を吹きかけて言われた。「聖霊を受けなさい。」2017)とあります。

 11弟子以外の人たちの中でイエス様を信じた人は、ペンテコステ(五旬節)の日及びその後に聖霊を受けたのです。

 フランスにパスカルというキリスト者がいました。この人は、キリスト教の神学者であると共に、哲学者、物理学者、思想家、数学者、発明家、実業家でもあった人です。
パスカルは、多くの言葉を残しましたが、その中に、「人の心の中には、神が作った空洞がある。その空洞は創造者である神以外のものよっては埋めることができない。」
というものがあります。

 パスカルのこの言葉は、今日書いてきたイエス様の御言葉の中にあるものを組み合わせるとできる言葉です。
再掲しますが、イエス様の御言葉とヨハネの解説は、次のように記されていました。
“37
祭り〔仮庵の祭(筆者挿入)〕が最も盛大に祝われる終わりの日に、イエスは立ち上がって大声で言われた。「渇いている人はだれでも〔直訳は、「誰かが渇いているなら」(筆者挿入)〕、わたしのところに来て飲みなさい。
38
わたし〔イエス・キリスト(筆者挿入)〕を信じる者は、聖書に書いてあるとおり、その人の内〔ギリシア語原語は「コイリア」で、原義は「空洞」、その他、腹、子宮、、マトリックス等の意があります(筆者挿入)〕から生きた水〔聖い霊(筆者挿入)〕が川〔「川」は複数形(筆者挿入)〕となって流れ出るようになる。」
39
イエスは、御自分を信じる人々が受けようとしている“霊”について言われたのである。イエスはまだ栄光を受けておられなかったので、“霊”がまだ降っていなかった〔直訳「聖霊はまだなかった」(筆者挿入)〕からである。(新共同訳)と。

 イエス様を信じた時に、心の中の空洞となっている部分に新生という意味での霊の誕生をしたのでしょう。そしてそこに聖い霊が入ってくださったのです。
1
コリント617には、主と交わる者は、主と一つの霊となるのです。(聖書協会共同訳)と記され、
ヨハネ1416.17には、わたしは父にお願いしよう。父は別の弁護者を遣わして、永遠にあなたがたと一緒にいるようにしてくださる。この方は、真理の霊〔聖霊のこと(筆者挿入)〕である。世は、この霊を見ようとも知ろうともしないので、受け入れることができない。しかし、あなたがたはこの霊を知っている。この霊があなたがたと共におり、これからも、あなたがたの内にいるからである。(新共同訳)というイエス様の御言葉があり、
ヨハネ1423には、「だれでもわたしを愛する人は、わたしのことばを守ります。そうすれば、わたしの父はその人を愛し、わたしたちはその人のところに来て、その人とともに住みます。2017)というイエス様の御言葉があるのです。
{「川」(複数形)が流れ出るようになる(ヨハネ738)}

 
新生したキリスト者の心の中には、聖なる、すなわち主なる神の霊があり、心がきよくあるとき、その心の中の霊から、主の何か(様々な良きもの)が流れ出していくのです。
それ故、主の働きを阻害するものを処理する必要があるのです。
今日の箇所、すなわち箴言の続きの聖句には次のように記されています。
“24
曲がったことを言う口をあなたから取り除き、ゆがんだことを言う唇をあなたから遠ざけよ。
25
あなたの目が前方を見つめ、まぶたがまっすぐ前を向くようにせよ〔ヘブル122a参照(筆者挿入)〕。
26
あなたの足の道筋に心を向けよ。そうすれば、あなたのすべての道は堅く定まる。
27
右にも左にもそれてはならない。あなたの足を悪から遠ざけよ。2017)とあります。

<お祈り>
天のお父様。
あなたの御名を賛美します。
あなたはパウロを通して、ローマ信徒への手紙66に、「わたしたちの古い自分がキリストと共に十字架につけられたのは、罪に支配された体が滅ぼされ、もはや罪の奴隷にならないためである」(新共同訳)と記してくださり、またガラテヤ524には、「キリスト・イエスに屬する者は、肉とともに其の情と慾とを十字架につけたり。」(文語訳)と記してくださいました。
その恵みに立って、私を通しても三一の主なる神様に働いて頂くことができますように。
尊きあなたの御名を崇め、感謝しつつ、私たちの主キリスト・イエス様の御名で祈ります。アーメン。

2022年1月16日 (日)

主により頼む者を主が見捨てることはない

 詩篇99.10{新改訳2017(新改訳、口語訳、リビングバイブルの9.10節を、新共同訳、聖書協会共同訳、フランシスコ会訳は10.11節としています)}には次のように記されています。
“9
主〔ヤハウェ(筆者挿入)〕は虐げられた者の砦、苦しみのときの砦。
10
御名を知る者は、あなたに拠り頼みます。主〔ヤハウェ(筆者挿入)〕よ、あなたを求める者を、あなたはお見捨てになりませんでした。とあります。

 聖書協会共同訳は、
“10
主は虐げられた人の砦、苦難の時の砦。
11
御名を知る者はあなたに信頼する。主よ、あなたは尋ね求める人を、お見捨てにならなかった。と訳しています。

 イエス様を信じて救われたからといって、苦難がなくなるわけではありません。
イエス様は、最後の晩餐の席で、「あなたがたは、世にあっては患難〔「苦難」(2017)〕があります。」(ヨハネ1633抜粋・新改訳第三版)と弟子たちに語られました。

 イエス様は、「あなたがたは、世にあっては患難〔「苦難」(2017)〕があります。」(ヨハネ1633抜粋・新改訳第三版)と語られる前に、
18 世があなたがたを憎むなら、あなたがたよりも先にわたしを憎んだことを知っておきなさい。19 もしあなたがたがこの世のものであったら、世は自分のものを愛したでしょう。しかし、あなたがたは世のものではありません。わたしが世からあなたがたを選び出したのです。そのため、世はあなたがたを憎むのです。20 しもべは主人にまさるものではない、とわたしがあなたがたに言ったことばを覚えておきなさい。人々がわたしを迫害したのであれば、あなたがたも迫害します。彼らがわたしのことばを守ったのであれば、あなたがたのことばも守ります。21 しかし彼らは、これらのことをすべて、わたしの名のゆえにあなたがたに対して行います。わたしを遣わされた方を知らないからです。」(ヨハネ15章・2017)と語られました。

 昨年、中国のある地域では、クリスマス集会が禁止されました。その地域の主に在る兄姉たちにとってはまさに艱難が襲ってきているのです。
 大患難時代には恵みの時代に救われて携挙されたキリスト者はいませんが、大患難時代には、主が備えている艱難時代の聖徒たちが起こされていきます。その人たちは、殉教して天に帰ってくるのです。
 黙示録79-17には次のように記されています。
“9
その後、私は見た。すると見よ。すべての国民、部族、民族、言語から、だれも数えきれないほどの大勢の群衆が御座の前と子羊の前に立ち、白い衣を身にまとい、手になつめ椰子の枝を持っていた。
10
彼らは大声で叫んだ。「救いは、御座に着いておられる私たちの神と、子羊にある。」
11
御使いたちはみな、御座と長老たちと四つの生き物の周りに立っていたが、御座の前にひれ伏し、神を礼拝して言った。
12
「アーメン。賛美と栄光と知恵と感謝と誉れと力と勢いが、私たちの神に世々限りなくあるように。アーメン。」
13
すると、長老の一人が私に話しかけて、「この白い衣を身にまとった人たちはだれですか。どこから来たのですか」と言った。
14
そこで私が「私の主よ、あなたこそご存じです」と言うと、長老は私に言った。「この人たちは大きな患難を経てきた者たちで、その衣を洗い、子羊の血で白くしたのです。
15
それゆえ、彼らは神の御座の前にあって、昼も夜もその神殿で神に仕えている。御座に着いておられる方も、彼らの上に幕屋を張られる。
16
彼らは、もはや飢えることも渇くこともなく、太陽もどんな炎熱も、彼らを襲うことはない。
17
御座の中央におられる子羊が彼らを牧し、いのちの水の泉に導かれる。また、神は彼らの目から涙をことごとくぬぐい取ってくださる。」2017)とあります。

 肉体が殺される状態に置かれる苦難は重いものです。
しかし、その時でも、「御名を知る者は、あなたに拠り頼みます。主〔「ヤハウェ」。キリスト者の場合は「イエス」(筆者挿入)〕よ、あなたを求める者を、あなたはお見捨てになりませんでした。」(詩篇910)と証しすることができるのです。

 現在の日本においては、迫害によって殺されるということはありませんが、肉体が死んでいく状態に置かれる苦難の一つとして、死病があります。
すべての人の肉体は死に向かっていますが、多くの人はそのことをあまり考えないかのように歩んでいます。しかし、いつ死ぬか分からない状態に置かれている病人は、死ぬかもしれないという心の状態に置かれているのです。
そのような場合でも、主により頼む者、主に信頼する者は、自分のすべてを主に委ね、天を望み、主から平安を賜り、平穏の内に日々を過ごすことができるのです。

 パウロは次のような思いをもって生活していました。
「私の願いは、どんな場合にも恥じることなく、今もいつものように大胆に語り、生きるにしても死ぬにしても、私の身によってキリストがあがめられることです。私にとって生きることはキリスト、死ぬことは益です。しかし、肉体において生きることが続くなら、私の働きが実を結ぶことになるので、どちらを選んだらよいか、私には分かりません。私は、その二つのことの間で板ばさみとなっています。私の願いは、世を去ってキリストとともにいることです。そのほうが、はるかに望ましいのです。しかし、この肉体にとどまることが、あなたがたのためにはもっと必要です。」(ピリピ120-242017)と記されています。

 パウロが、上述のように言えたのは、キリストの愛に包まれていたからor・&内なるキリストの愛が溢れ出していたからではないかと思います。

 それは、パウロの次の言葉からも分かります。
ローマ83537-39には次のように記されています。
「だれが、私たちをキリストの愛から引き離すのですか。苦難ですか、苦悩ですか、迫害ですか、飢えですか、裸ですか、危険ですか、剣ですか。しかし、これらすべてにおいても、私たちを愛してくださった方によって、私たちは圧倒的な勝利者です。私はこう確信しています。死も、いのちも、御使いたちも、支配者たちも、今あるものも、後に来るものも、力あるものも、高いところにあるものも、深いところにあるものも、そのほかのどんな被造物も、私たちの主キリスト・イエスにある神の愛から、私たちを引き離すことはできません。」(2017)とあります。

 常に主と共にあればパウロのように語ることができるでしょうが、たとえそうでなくても、イエス様は次のように語ってくださいます。
「父がわたしにお与えになる者はみな、わたしのところに来ます。そしてわたしのところに来る者を、わたしは決して捨てません。」(ヨハネ637・新改訳第三版)と。

<お祈り>
天のお父様。
あなたの御名を賛美します。
あなたに、そしてイエス様に信頼することを得させてくださり感謝します。
あなたは、私たち新生させて頂いた者をイエス様の内に置いて下さり、またイエス様が内に住んでくださっておられますから感謝します。
あなたの御名を崇め、感謝し、私たちの主キリスト・イエス様の御名で祈ります。アーメン。

2022年1月15日 (土)

主への信頼を教育する主

 主はアブラム(後のアブラハム)に次にように条件付きの契約を結びました。
創世記121-3には次のように記されています。
“1
主〔ヤハウェ(筆者挿入)〕はアブラムに言われた。
「あなたは、あなたの土地、あなたの親族、あなたの父の家を離れて、わたしが示す地へ行きなさい。
2
そうすれば、わたしはあなたを大いなる国民とし、あなたを祝福し、あなたの名を大いなるものとする。あなたは祝福となりなさい。
3
わたしは、あなたを祝福する者を祝福し、あなたを呪う者をのろう。地のすべての部族は、あなたによって祝福される。」2017)とあります。

 この時、アブラムは75歳、サライ(後のサラ)は65歳でした(年の差が10歳であるのは、創世記1717参照)。
アブラムとサライ夫妻には、サライが65歳になっても子供がいなかったのです。
女性の卵子は、誕生時に全て備えられています。誕生後に卵子が増えることはなく、減っていくのみです。
アブラムは75歳、サライは65歳、おそらくその時から、9年間神のことばを信じて子供が与えられることを待ったことでしょう。
しかし、子どもは与えられませんでした。

 サライは、ヤハウェ(主)の、「あなた〔アブラム(筆者挿入)〕を大いなる国民とし」という約束に、人間の発想で協力しようとしたのかも知れません。
創世記121-3の約束から10年後のことです。
サライは、自分の女奴隷ハガルによって、アブラムの子どもを儲け(もうけ)、その子を自分の子どもにしようとしたのです(創世記163)。

 サライの期待通り、ハガルは子供を産みました。アブラムは、その子をイシュマエルと名づけました。この時、アブラムは86歳でした。サライは76歳であったでしょう。

 イシュマエルが誕生した時から13年間、ヤハウェ(主)とアブラムの関係記事が聖書に記されていません。

 アブラムは、サライの女奴隷ハガルと関係を持つ前(どのくらい前かは分かりません)に、ヤハウェ(主)から次のような約束を与えられていました。
「あなたの子孫に、わたしはこの地を与える。エジプトの川から、あの大河ユーフラテス川まで。
19
ケニ人、ケナズ人、カデモニ人、20 ヒッタイト人、ペリジ人、レファイム人、21 アモリ人、カナン人、ギルガシ人、エブス人の地を。」(創世記15章・2017)と記されています。

 ハガルは、アブラムの子を産んだことで、ハガルの女主人サライに対して従順でなくなったようです。ハガルは、アブラムの跡取りを産んだことで、気が大きくなっていったのでしょう。
サライはハガルを苛め(いじめ)抜き、追い出しました(創世記166)。

 
それから13年位の間、アブラムとサライはどのような生活を送ったのか、記されていません。聖書は、ヤハウェ(主)が人間に伝えたいことor教えたいことが書いてあるので、この間にそのような事柄がなかったのでしょう。というか、サライとアブラムがヤハウェ(主)の御旨に背いたので、ヤハウェ(主)からの御言葉がなかったのかも知れません。

 アブラムが99歳(サライは89歳)の時、ヤハウェ(主)はアブラムに現れました。
その時にヤハウェ(主)がアブラムに語った言葉が創世記17章に次のように記されています。
“1
・・・。「わたしは全能の神である。あなたはわたしの前に歩み、全き者であれ〔完全に主を信じて従うものでありなさい(筆者挿入)〕。2 わたしは、わたしの契約を、わたしとあなたとの間に立てる。わたしは、あなたを大いに増やす。」/
4
「これが、あなたと結ぶわたしの契約である。あなたは多くの国民の父となる。
5
あなたの名は、もはや、アブラムとは呼ばれない。あなたの名はアブラハムとなるわたしがあなたを多くの国民の父とするからである。〔アブラムの名の意味は、「父は高められる」or「(地位の)高い父」。アブラハムの名の意味は、「多数のor大勢のor群衆の父」。文語訳は「衆多(おおく)の人の父」と訳し、他の日本語訳は「多くの国民の父」の意に訳しています(筆者挿入)〕
6
わたしは、あなたをますます子孫に富ませ、あなたをいくつもの国民とする。王たちが、あなたから出てくるだろう。
7
わたしは、わたしの契約を、わたしとあなたとの間に、またあなたの後の子孫との間に、代々にわたる永遠の契約として立てる。わたしは、あなたの神、あなたの後の子孫の神となる。
8
わたしは、あなたの寄留の地、カナンの全土を、あなたとあなたの後の子孫に永遠の所有として与える。わたしは彼らの神となる。」/
 〔9-14節は割礼の契約(筆者挿入)〕
9
・・・。「あなた〔アブラハム(筆者挿入)〕は、わたし〔ヤハウェ(筆者挿入)〕の契約を守らなければならない。あなたも、あなたの後の子孫も、代々にわたって。
10
次のことが、わたしとあなたがたとの間で、またあなたの後の子孫との間で、あなたがたが守るべきわたしの契約である。あなたがたの中の男子はみな、割礼を受けなさい。
11
あなたがたは自分の包皮の肉を切り捨てなさい。それが、わたしとあなたがたとの間の契約のしるしとなる。
12
あなたがたの中の男子はみな、代々にわたり、生まれて八日目に割礼を受けなければならない。家で生まれたしもべも、異国人から金で買い取られた、あなたの子孫ではない者もそうである。
13
あなたの家で生まれたしもべも、金で買い取った者も、必ず割礼を受けなければならない。わたしの契約は、永遠の契約として、あなたがたの肉に記されなければならない。
14
包皮の肉を切り捨てられていない無割礼の男、そのような者は、自分の民から断ち切られなければならない。わたしの契約を破ったからである。」2017

 創世記1715.16には、アブラハムとサライ(サラ)へのヤハウェ(主)の契約が次のように記されています。
“15
また神はアブラハムに仰せられた。「あなたの妻サライは、その名をサライと呼んではならない。その名はサラとなるからだ。〔「サライ」には、「支配的な」の意があります。「サラ」には、「女性の長、女性の支配者、女王」等の意があります。2017訳は、「彼女は国々の母となり、もろもろの民の王たちが彼女から出てくる。」とヤハウェ(主)の御言葉を載せています。(筆者挿入)〕
16
わたしは彼女を祝福し、彼女によって必ずあなたに男の子を与える。わたしは彼女を祝福する。彼女は国々の母となり、もろもろの民の王たちが彼女から出てくる。」2017)とあります。

 ヤハウェ(主)の冒頭の御言葉は、「わたしは全能の神である。あなたはわたしの前に歩み、全き者であれ。」(創世記1712017)というものでした。
しかし、アブラハムもサラもヤハウェ(主)の御言葉を信じることが出来ませんでした。
創世記1717.18には次のように記されています。
“17
アブラハムはひれ伏して、笑った。そして心の中で言った。
「百歳の者に子が生まれるだろうか。サラにしても、九十歳の女が子を産めるだろうか。」
18
そして、アブラハムは神に言った。
「どうか、イシュマエルが御前で生きますように。」2017)と。

 上記のように答えたアブラハムに対してヤハウェ(主)は次のように語ったと記されています。
“19
神は仰せられた。
「いや、あなたの妻サラが、あなたに男の子を産むのだ。あなたはその子をイサクと名づけなさい。わたしは彼と、わたしの契約を立て、それを彼の後の子孫のために永遠の契約とする。
20
イシュマエルについては、あなたの言うことを聞き入れた。必ず、わたしは彼を祝福し、子孫に富ませ、大いに増やす。彼は十二人の族長たちを生む。わたしは彼を大いなる国民とする。
21
しかし、わたしがわたしの契約を立てるのは、サラが来年の今ごろあなたに産むイサクとの間にである。」
22
神はアブラハムと語り終えると、彼のもとから上って行かれた。(創世記17章・2017)とあります。

 サラはというと、サラも信じませんでした。
その後のことになりますが、創世記189-15には次のように記されています。
“9
彼らはアブラハムに言った。
「あなたの妻サラはどこにいますか。」
彼は答えた。
「天幕の中におります。」
10
すると、そのうちの一人が言った。
「わたしは来年の今ごろ、必ずあなたのところに戻って来ます。そのとき、あなたの妻サラには男の子が生まれています。」
サラは、その人のうしろの、天幕の入り口で聞いていた。
11
アブラハムとサラは年を重ねて老人になっていて、サラには女の月のものがもう止まっていた〔閉経していた(筆者挿入)〕。
12
サラは心の中で笑って、こう言った。
「年老いてしまったこの私に、何の楽しみがあるでしょう。それに主人も年寄りで。」
13
主〔ヤハウェ(筆者挿入)〕はアブラハムに言われた。
「なぜサラは笑って、『私は本当に子を産めるだろうか。こんなに年をとっているのに』と言うのか。14 主〔ヤハウェ(筆者挿入)〕にとって不可能なことがあるだろうか。わたしは来年の今ごろ、定めた時に、あなたのところに戻って来る。そのとき、サラには男の子が生まれている。」
15
サラは打ち消して言った。
「私は笑っていません。」恐ろしかったのである。しかし、主は言われた。「いや、確かにあなたは笑った。」2017)とあります。

 アブラハムもサラもヤハウェ(主)が語られたときには、すぐに信じることは出来ませんでした。
ヤハウェ(主)から、「わたしは全能の神である。あなたはわたしの前に歩み、全き者であれ。」(創世記1712017)と言われたからといって、アブラハムといえども、アブラハムとサラの間に子供が生まれる、ということを信じることは出来なかったのです。
しかし、上記の一連の出来事があった後、主の御言葉を信じる信仰が与えられたのでしょう。 

 ヤハウェ(主)は、「わたしは来年の今ごろ、定めた時に、あなたのところに戻って来る。そのとき、サラには男の子が生まれている。」(創世記18142017)と語られていますから、妊娠日数を差し引いた日にち以前には、アブラハムもサラも悔い改めて、ヤハウェ(主)の御言葉を信じる信仰を与えられたのではないかと想像します。
ヘブル1111に、アブラハムは、すでにその年を過ぎた身であり、サラ自身も不妊の女であったのに、信仰によって、子をもうける力を得ました。彼が、約束してくださった方を真実な方と考えたからです。2017)と記されていますから。
 イシュマエルは、肉の欲求or人の欲求に基づく子でしたが、
イサクは、ヤハウェ(主)の御言葉に基づく子でした。

 キリスト者に対しては次のように記されています。
“3
わたしたちの主イエス・キリストの父である神は、ほめたたえられますように。神は、わたしたちをキリストにおいて、天のあらゆる霊的な祝福で満たしてくださいました。
4
天地創造の前に、神はわたしたちを愛して、御自分の前で聖なる者、汚れのない者にしようと、キリストにおいてお選びになりました。
5
イエス・キリストによって神の子にしようと、御心のままに前もってお定めになったのです。
6
神がその愛する御子によって与えてくださった輝かしい恵みを、わたしたちがたたえるためです。
7
わたしたちはこの御子において、その血によって贖われ、罪を赦されました。これは、神の豊かな恵みによるものです。
8
神はこの恵みをわたしたちの上にあふれさせ、すべての知恵と理解とを与えて、
9
秘められた計画をわたしたちに知らせてくださいました。これは、前もってキリストにおいてお決めになった神の御心によるものです。{エフェソ(エペソ)1章・新共同訳)とあります。

 ガラテヤ428には、「兄弟たち、あなたがたはイサクのように約束の子どもです。」(2017)と記されています。

<お祈り>
天のお父様。
あなたの御名を賛美します。
信仰の父と言われたアブラハムであっても、主から語られた約束を、すべて直ちに信じたわけではありませんでした。
あなたの恵みによって、私たちにあなたの御言葉のすべてを信じる信仰を与えてください。
私たちの主キリスト・イエス様の御名で祈ります。アーメン。

2022年1月14日 (金)

幸いなるかな 平和ならしむる者or者たち

 マタイ59
文語訳は、幸福(さいわい)なるかな、平和ならしむる者。その人は神の子と稱(とな)へられん。と訳し、
2017
は、平和をつくる者は幸いです。その人たちは神の子どもと呼ばれるからです。と訳し、
聖書協会共同訳は、平和を造る人々は、幸いである。その人たちは神の子と呼ばれる。と訳し、
岩波訳は、幸いだ、平和を造り出す者たち、その彼らこそ、神の子らと呼ばれるであろう。と訳しています。
 複数形と単数形、時制をそのまま直訳しているのは岩波訳です。

 「神の子」と呼ばれるためには、神から生まれる必要があります。
永遠の昔から、神の御子は神のひとり子の御子です。
神のひとり子の御子は、贖いを成し遂げるために肉体を持ってマリアから誕生しました。マリアのお腹にいた神の御子は、聖霊によって肉体を纏ったのです(マタイ120)。
そして、誕生すると、イエス(イェシュア)と名づけられたのです。イェシュアとは、「神は救う」の意ですから、この子が救い主だということをユダヤ人なら理解できたでしょう。

 マタイ120.21には、彼がこのことを思い巡らしていたところ、見よ、主の使いが夢に現れて言った。「ダビデの子ヨセフよ、恐れずにマリアをあなたの妻として迎えなさい。その胎に宿っている子は聖霊によるのです。マリアは男の子を産みます。その名をイエスとつけなさい。この方がご自分の民をその罪からお救いになるのです。」2017)と記されています。

 ローマ51には、“・・私たちは信仰によって義と認められたので、私たちの主イエス・キリストによって、神との平和を持っています。”(2017)と記されています。

 神と人との間に平和を造りだしたお方、そのお方は、イエス・キリスト様です。
人間の新生児は、罪を内包している肉の両親から生まれたのであって、神から生まれたのではありません。それ故、人の子どもであって、神の子どもではありません。

 
ヨハネ36には、“肉から生まれたものは肉である。霊から生まれたものは霊である。”(新共同訳)と記されています。

 もし、今日の箇所の聖句が、「幸福なるかな、平和ならしむる者。その人は神の子と稱へられん。」(文語訳)のように、「平和ならしむる者」、「その人は神の子」と、日本語的に単数形と捉えたとしたら、この聖句は、イエス・キリスト様を表していることになったであろうと思います。

 キリスト者は、救い主であり、主であるイエス・キリスト様を信じました。心にお迎えしました(ヨハネ112、黙示録320)。その結果、神から霊の誕生をしたのです。そして神の子どもと呼ばれる身分となりました。新生したキリスト者は、肉体は罪を有する両親の遺伝子を受け継いだも出で出来ています。霊は神からのものです。体も神の子としてふさわしい霊の体に変えられるのは、キリストの空中再臨時です。

 ヨハネ33.6には、エスは答えて言われた。「はっきり言っておく。人は、新たに生まれなければ、神の国を見ることはできない。」/肉から生まれたものは肉である。霊から生まれたものは霊である。(新共同訳)と記されています。
 1
ペテロ13には、“私たちの主イエス・キリストの父である神がほめたたえられますように。神は、ご自分の大きなあわれみのゆえに、イエス・キリストが死者の中からよみがえられたことによって、私たちを新しく生まれさせ、生ける望みを持たせてくださいました。”(2017)と記されています。

 1ヨハネ31.2には、私たちが神の子どもと呼ばれるために、御父がどんなにすばらしい愛を与えてくださったかを、考えなさい。事実、私たちは神の子どもです。世が私たちを知らないのは、御父を知らないからです。愛する者たち、私たちは今すでに神の子どもです。やがてどのようになるのか、まだ明らかにされていません。しかし、私たちは、キリストが現れたときに、キリストに似た者になることは知っています。キリストをありのままに見るからです。2017)と記されています。
「神の子ども」と訳されている「子ども」のギリシア語原語は「テクノン」です。
テクノンは「生む」という動詞に由来し,出生の系統に重点をおいています(聖書辞典参照)。

 1コリント15章に、“49 私たちは、土で造られた人のかたちを持っていたように、天に属する方のかたちも持つことになるのです。50 兄弟たち、私はこのことを言っておきます。血肉のからだは神の国を相続できません。朽ちるものは、朽ちないものを相続できません。51 聞きなさい。私はあなたがたに奥義を告げましょう。私たちはみな眠るわけではありませんが、みな変えられます。52 終わりのラッパとともに、たちまち、一瞬のうちに変えられます。ラッパが鳴ると、死者は朽ちないものによみがえり、私たちは変えられるのです2017)と記されています。

 1テサロニケ416.17には、“16 すなわち、号令と御使いのかしらの声と神のラッパの響きとともに、主ご自身が天から下って来られます。そしてまず、キリストにある死者がよみがえり、17 それから、生き残っている私たちが、彼らと一緒に雲に包まれて引き上げられ、空中で主と会うのです。こうして私たちは、いつまでも主とともにいることになります。2017)と記されています。キリストの空中再臨

 キリスト者でない人が、平和運動をしても「神の子」とは呼ばれません。
キリスト者が平和運動をしたら、平和をもたらし、神の子と呼ばれるようになるのでしょうか?
キリスト者が平和運動をしたところで、世界に永続する平和をもたらすことなど出来ないでしょう。

 この聖句を原語のギリシア語聖書で読むと、「神の子らと呼ばれるであろう。」と未来形で記されています。
 ローマ819には、被造物は切実な思いで、神の子どもたちが現れるのを待ち望んでいます。2017)と記されています。
「神の子どもたちの現れ」とは、霊のみならず、体も神の子どもとしての霊の体を与えられた後のことを指していると思います。

 そのように考えると、神の子どもたちは、何時平和を造りだすことになるのか、という問いに、私は一つだけ思いあたるものがあります。
その時の描写を黙示録は次のように記しています。
“11
そして、わたしは天が開かれているのを見た。すると、見よ、白い馬が現れた。それに乗っている方〔地上再臨される神のひとり子の御子であられる主キリスト(筆者挿入)〕は、「誠実」および「真実」と呼ばれて、正義をもって裁き、また戦われる。
12
その目は燃え盛る炎のようで、頭には多くの王冠があった。この方には、自分のほかはだれも知らない名が記されていた。
13
また、血に染まった衣を身にまとっており、その名は「神の言葉」と呼ばれた。
14
そして、天の軍勢が白い馬に乗り、白く清い麻の布〔黙示録198よりするとキリストの花嫁=エクレシア=真の教会=神の子どもたちです(筆者挿入)〕をまとってこの方に従っていた。
15
この方の口からは、鋭い剣〔エペソ617からすると「霊の剣」(筆者挿入)〕が出ている。諸国の民をそれで打ち倒すのである。また、自ら鉄の杖で彼らを治める(黙示録125)。この方はぶどう酒の搾り桶を踏むが、これには全能者である神の激しい怒りが込められている。
16
この方の衣と腿のあたりには、「王の王、主の主」という名が記されていた。
17
わたしはまた、一人の天使が太陽の中に立っているのを見た。この天使は、大声で叫び、空高く飛んでいるすべての鳥にこう言った。「さあ、神の大宴会に集まれ。
18
王の肉、千人隊長の肉、権力者の肉を食べよ。また、馬とそれに乗る者の肉、あらゆる自由な身分の者、奴隷、小さな者や大きな者たちの肉を食べよ。」
19
わたしはまた、あの獣〔大患難時代の地上支配者(筆者挿入)〕と、地上の王たち〔獣に従う諸国の統治者たち(筆者挿入)〕とその軍勢とが、馬に乗っている方とその軍勢に対して戦うために、集まっているのを見た。
20
しかし、獣は捕らえられ、また、獣の前でしるしを行った偽預言者〔大患難時代の宗教指導者(筆者挿入)〕も、一緒に捕らえられた。このしるしによって、獣の刻印を受けた者や、獣の像を拝んでいた者どもは、惑わされていたのであった。獣と偽預言者の両者は、生きたまま硫黄の燃えている火の池に投げ込まれた。
21
残りの者どもは、馬に乗っている方の口から出ている剣で殺され、すべての鳥は、彼らの肉を飽きるほど食べた。(黙示録19章・新共同訳)とあります。

 平和を造るための最終手段は、何と、無暴力の平和運動ではなく、武力による平定でした。

 神の子どもと呼ばれる者たちが平和を造りだすための計画に参画させて頂けるのは未来のことであり、黙示録のこの箇所しかないのではないかと、私は思いました。

 私の想像ですが、実際には、私たちはイエス様について行くだけで、イエス様が、一言、裁きの御言葉を発すれば、事は終わってしまうのではないかと思うのです。
戦いの天使たちも行くことでしょうから。

 今日の文章は、未来に関わることが多く、私の推測というか妄想と思われるようなものが含まれています。事実はその時が来れば分かります。

<お祈り>
天のお父様。
あなたの御名を賛美します。
あなたは私たちに溢れ過ぎるほどの恵みを与えてくださることを感謝します。
いつもあなたを賛美し、あなたに感謝し、歩み続ける者であらせてください。
私たちの主キリスト・イエス様の御名で祈ります。アーメン。

2022年1月13日 (木)

へりくだった者には恵みが与えられる

 箴言334には、へりくだった者には恵みが与えられる。2017)と記されています。

 「へりくだる」という語は、一般的には、相手を敬って自分を控えめにする。謙遜する。卑下する。(デジタル大辞泉)というように用いられます。

 聖書に、「へりくだる」と書いてある場合、その対象は、誰に対して(どなたに対して)のことでしょうか?
「へりくだる」対象は、三一の神様である、と私は思います。

 神様に対してへりくだる人は、神様が語られた御言葉に対してへりくだります。
ですから、聖書に記されていることを素直に受け入れるのです。

 その反対に、聖書に記されている神様の御言葉を信じない人、ないがしろにする人、敵対する人は、神様に対して「高慢な人」、「高ぶる人」と言えると思います。

 キリスト者は、見境なくへりくだるべきではないでしょう。
悪魔悪霊のような悪しき霊にへりくだっては困ります。
悪魔悪霊に従っている人の命令に対して素直に聞き従うことは、神に対する高慢になります。

 一方、神に聞き従って歩んでいる人、神の御言葉の中を歩んでいる人に聞き従うことは、神に対して謙遜な行動です。
とはいえ、相手が人間の場合、平素より神様に従っている人の言動が100%神様の御旨の通りとは限りません。一例として、ガラテヤ211-13があります。
 ガラテヤ211-14には次のように記されています。
“11
さて、ケファ〔「ペテロ」の別称(筆者挿入)〕がアンティオキアに来たとき、非難すべきところがあったので、わたし〔パウロ(筆者挿入)〕は面と向かって反対しました。
12
なぜなら、ケファは、ヤコブのもとからある人々が来る〔「ヤコブの友人であるユダヤ人が何人かやって来る」(リビングバイブルの意訳)〕までは、異邦人と一緒に食事をしていたのに、彼らがやって来ると、割礼を受けている者たちを恐れてしり込みし、身を引こうとしだしたからです。
13
そして、ほかのユダヤ人も、ケファと一緒にこのような心にもないことを行い、バルナバさえも彼らの見せかけの行いに引きずり込まれてしまいました。
14
しかし、わたしは、彼らが福音の真理にのっとってまっすぐ歩いていないのを見たとき、皆の前でケファに向かってこう言いました。「あなたはユダヤ人でありながら、ユダヤ人らしい生き方をしないで、異邦人のように生活しているのに、どうして異邦人にユダヤ人のように生活することを強要するのですか。」(新共同訳)とあります。
「ケファ」とはペテロの別名です。ギリシア語聖書(TR)には、この箇所は「ペトロス」となっています。「ケファ」はアラム語で「岩」です。

 いつもは主に対して謙遜なケファ(ペテロ)とバルナバでしたが、パウロに叱責されたときには、主に対して高慢になっていました。人を恐れて罠にかかってしまったのです。
一方、パウロの方は、ケファ(ペテロ)とバルナバに対して高慢なように見えますが、主に対して謙遜であったのです。

 余談になりますが、
「岩」という語が出てきたので、マタイ1618の聖句の一部を下記します。
イエス様がシモン{「ヨナの子シモン」(ペテロorケファはイエス様がつけた名前)}に、「あなたはペテロ〔原語であるギリシア語は「ペトロス」で、岩{の一部分(かけら)}の意(筆者挿入)〕です。
わたしはこの岩〔キリストが自分を指して「この岩」と言っています。この岩の「岩」と訳されている語の原語であるギリシア語は「ペトラ」で、大きな岩の意です(筆者挿入)〕の上に、わたしの教会を建てます。

リビングバイブルは、同じ個所を次のように意訳しています。
“あなたはペテロ(岩)です。わたしはこの大きな岩の上に私の教会を立てます。”と。

 後になって、ペテロは、手紙の中で次のように記しました。
意訳になりますが、リビングバイブル旧版は次のように訳しています。
“キリスト様に近づきなさい。キリスト様は生ける土台石となり、神様はその上に、神の家をお建てになるのです。キリスト様を、人々は拒絶しましたが、神様は最も重要な存在として選ばれたのです。そして今、あなたがたは、神の家を建て上げるための生ける石となったのです。そればかりか、神様のきよい祭司となりました。イエス・キリストによって、神様に受け入れられたあなたがたは、喜ばれる供え物を神様にささげなさい。”(1ペテロ2:4.5)とあります。

 今日の聖書箇所は、“へりくだった者には恵みが与えられる。”(箴言3:34・2017)という聖句です。
主は最初に救いの恵みを与えてくださり、更に、聖書に記されている主が約束してくださった聖句に信頼していけば、その聖句に基づいた恵みが与えられていくのです。
主に信頼すること、即ち主の御言葉に信頼することは非常に幸いなことです。

 イエス様は、キリスト者を羊に譬えて次のように語られました。
ヨハネ10:10(抜粋)には、次のように記されています。
諸聖書の訳を記しますと、
 2017は、「わたしが来たのは、羊たちがいのちを得るため、それも豊かに得るためです。」と訳し、
 新改訳第三版は、「わたしが来たのは、羊がいのちを得、またそれを豊かに持つためです。」と訳し、
 新共同訳は、「わたしが来たのは、羊が命を受けるため、しかも豊かに受けるためである。」と訳し、
 口語訳は、「わたしがきたのは、羊に命を得させ、豊かに得させるためである。」と訳し、
 塚本訳は、「わたしは(羊に)命を持たせるため、あり余るほど(の命を)持たせるために来たのである。」と訳し、
 リビングバイブルは、「わたしが来たのは、いのちをあふれるほど豊かに与えるためです。」と訳しています。

 ヨハネ1:16には、「わたしたちは皆、この方の満ちあふれる豊かさの中から、恵みの上に、更に恵みを受けた。」(新共同訳)と記されています。
 
<お祈り>
天のお父様。
あなたの御名を賛美します。
あなたが与えてくださった私たちへの約束の聖句を単純に、素直に信じて歩み続ける者であらせてください。
次から次へと恵みを与えてくださろうとなさっておられることを感謝します。
というよりも、あなたは、「天上にあるすべての霊的祝福をもって私たちを祝福してくださいました」(エペソ1:3・2017)からありがとうございます。
あとは、私たちが約束された聖句を信じるか否かであることを覚えます。
信じることも賜物ですから、それをも豊かに与えてください。
イエス様が、「求めなさい。そうそれば与えられます。」と語られたのですから。
あなたに感謝し、私たちの主キリスト・イエス様の御名で祈ります。アーメン。

2022年1月12日 (水)

ヘブル人への手紙2章に引用された詩篇8篇、イエス・キリストの預言

 ヘブル人への手紙25-10を、
2017
は、
5 というのも、神は、私たちが語っている来たるべき世を、御使いたちに従わせたのではないからです。6 ある箇所で、ある人がこう証ししています。
「人とは何ものなのでしょう。
あなたがこれを心に留められるとは。
人の子とはいったい何ものなのでしょう。
あなたがこれを顧みてくださるとは。
7
あなたは、人を御使いよりもわずかの間低いものとし、これに栄光と誉れの冠をかぶらせ、8 万物を彼の足の下に置かれました。」
神は、万物を人の下に置かれたとき、彼に従わないものを何も残されませんでした。
それなのに、今なお私たちは、すべてのものが人の下に置かれているのを見てはいません。
9
ただ、御使いよりもわずかの間低くされた方、すなわちイエスのことは見ています。イエスは死の苦しみのゆえに、栄光と誉れの冠を受けられました。その死は、神の恵みによって、すべての人のために味わわれたものです。10 多くの子たちを栄光に導くために、彼らの救いの創始者を多くの苦しみを通して完全な者とされたのは、万物の存在の目的であり、また原因でもある神に、ふさわしいことであったのです。”と訳し、

 フランシスコ会訳は、
“5
神は、わたしたちが今、語っている、この来たるべき世界を、み使いたちの支配のもとに置くことはなさいませんでした。6聖書のある箇所で、こう証言している人がいます、
「人とは、何者なので、これをみ心に留められるのか。
人の子とは、何者なので、これを顧みられるのか。
7
あなたは、人を、しばらくの間、み使いたちよりも低いものとし、彼に栄えと誉れの冠を与え、8すべてのものを、その足の支配下に置かれた」。
「すべてのものをその支配下に置かれた」ということは、神がこの方の支配下に置かれなかった ものは何一つ残っていないということです。それなのに、今もなお、わたしたちは、この方が万物を支配しているのを目にしていません。9しかし、わたしたちが見ているのは、「しばらくの間、み使いたちよりも低いもの」とされたこのイエスが、その死の苦しみの故に、「栄えと誉れの冠」をお受けになったことです。こうして、イエスは、神の恵みによって、すべての人のために、この死を味わったのです。
10
万物の目的であり、造り主である方にとって、多くの子らを栄光に導くために、救いの創始者を数々の苦しみを通して、完全な者となさったのは、ふさわしいことでした。と訳しています。

 新改訳や口語訳が、詩篇84-6としている箇所を、新共同訳、聖書協会共同訳、フランシスコ会訳等は、5-7節としています。
ここではフランシスコ会訳を下記します。
“5
人とは何者なので、これをみ心に留められるのですか。
人の子は何者なので、これを顧みられるのですか。
6
あなたは人を神よりも僅かに劣るものとし、
彼に栄えと輝きの冠を与え、
7
み手の業を司どらせ、すべてのものを彼の足の下に置かれました。と訳しています。

 もしもアダムが罪を犯さなかったならば、この詩篇の箇所は、アダムに該当するものです。
創世記126-29には次のように記されています。
“26
神は言われた。
「我々にかたどり、我々に似せて、人を造ろう。そして海の魚、空の鳥、家畜、地の獣、地を這うものすべてを支配させよう。」
27
神は御自分にかたどって人を創造された。神にかたどって創造された。男と女に創造された。28 神は彼らを祝福して言われた。
「産めよ、増えよ、地に満ちて地を従わせよ。海の魚、空の鳥、地の上を這う生き物をすべて支配せよ。」
29
神は言われた。
「見よ、全地に生える、種を持つ草と種を持つ実をつける木を、すべてあなたたちに与えよう。それがあなたたちの食べ物となる。」(新共同訳)とあります。

 アダムは堕罪しました。
その結果、「海の魚、空の鳥、家畜、地の獣、地を這うものすべてを支配させよう。」という神の御言葉は堕罪後のアダムに実現しなくなりました。
アダムの堕罪後、この地はサタンに横奪されたのです。
1
ヨハネ519に、私たちは神に属していますが、世全体は悪い者〔悪魔=サタン(筆者挿入)〕の支配下にあることを、私たちは知っています。2017)と記されている通りです。

 詩篇8篇の表題(新共同訳等は1節)には、指揮者のために。ギテトの調べにのせて。ダビデの賛歌。2017)と記されていますから、この詩篇はアダムが死んだ後のものであることが分かります。
とすると、詩篇84-8の箇所は、人となられたイエス様(御子は完全な神であり、罪人を贖うために人ともなられたお方ですが)にピッタリの預言であることが分かります。
 再掲部分も含めて4-8節には次のように記されています。
“4
人とは何ものなのでしょう。あなたが心に留められるとは。人の子とはいったい何ものなのでしょう。あなたが顧みてくださるとは。
5
あなたは、人を御使いよりわずかに欠けがあるものとし、これに栄光と誉れの冠をかぶらせてくださいました。
6
あなたの御手のわざを人に治めさせ、万物を彼の足の下に置かれました。
7
羊も牛もすべて、また野の獣も、8 空の鳥、海の魚、海路を通うものも。とあります。
 4節冒頭の「人」と訳されている語のヘブライ語原語は、アダムではなく、「エノーシュ」で、死ぬべき運命の人、の意があります。

 話は変わって、私たちキリスト者の働きに大いに関係ある詩篇82(新共同訳、聖書協会共同訳、フランシスコ会訳は、3節)の聖句を2017訳は次のように記しています。
幼子たち、乳飲み子たちの口を通して、あなたは御力を打ち立てられました。
あなたに敵対する者に応えるため、復讐する敵を鎮めるために。とあります。
 「幼子たち、乳飲み子たち」というのは、新生したキリスト者で、単純に霊の父及び主イエスを信じる者たちのことです。
「あなたに敵対する者」とは、詩篇8:1の文脈から言うと、「ヤハウェ(主)に敵対する者」ということになりますから、サタン(悪魔)のことです。
サタンのヘブライ語原語は「サーターン」で、元来、「敵対者」の意です。
「復讐する敵」もサタンのことを言っていますが、「敵対する者」や「復讐する敵」と称される見える部分の人たちもいます。三一の神に敵対する人たちです。その人たちは、悪魔悪霊の配下に置かれているのです。しかし、キリスト者もかつては悪魔悪霊の配下に置かれていたのです。
エペソ21-3に次のように記されている通りです。
“1
さて、あなたがたは自分の背きと罪の中に死んでいた者であり、2 かつては、それらの罪の中にあってこの世の流れに従い、空中の権威を持つ支配者〔悪魔=サタン(筆者挿入)〕、すなわち、不従順の子ら〔三一の神に従わない者たち(筆者挿入)〕の中に今も働いている霊〔悪しき霊(筆者挿入)〕に従って歩んでいました。3 私たちもみな、不従順の子らの中にあって、かつては自分の肉の欲のままに生き、肉と心の望むことを行い、ほかの人たちと同じように、生まれながら御怒り〔神からの罰(筆者挿入)〕を受けるべき子らでした。2017)と。

 ところが、キリストの御救いにあずかったキリスト者たちは、幼子や乳飲み子が親を信じるように、単純に霊の父を信じ、主イエス様を信じ、そのおことばを信じ、御父や御子を賛美するように変えられていますor変えられていきます。
空中の権を持つサタンやその配下の者たち(悪しき霊の者たちやサタンに従う人達)は、幼子や乳飲み子と言われるキリスト者によって、敗北しているというのです。
私たちキリスト者はどの様にして勝利しているのでしょうか。
それは、主を愛し、主に信頼し、主を賛美し、主のあかしをすることによってです。

<お祈り>
天のお父様。
あなたの御名を賛美します。
私たちが、御父や主イエス様を賛美するとき、またあかしをするとき、サタンは嫌な思いをし、逆に、御父と御子と御霊は喜んでくださいます。
ハレルヤ!
あなたを賛美しながら歩んでいく生涯であらせてください。
私たちの主キリスト・イエス様の御名で祈ります。アーメン。

«人を恐れずに主に信頼し、主に従おう

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